思春期の恋愛における“他者評価”の面倒くささについて


ここ1年ほど、「篠崎愛はいつ“豚”から“天使”になったのか」について考えている。

篠崎愛が天使(太め)なのは言うまでもなく、彼女のグラビア画像のまとめたエントリが定期的にホッテントリ入りするなど、現在ネット上で最もシェアされているグラビアアイドルと言っても過言ではない。しかし、僕の記憶が確かなら、デビュー当時からそこまでの絶賛を受けていたわけではなかったはずだ。

彼女が世に出た当初、「巨乳画像スレ」などに彼女の画像が貼られた際には、「デブの画像は貼るな!」といった罵倒がよく書き込まれていたことを覚えている。もっとストレートに“豚”などと罵しる輩も少なくなかった。

しかし、いつの頃(多分去年くらい)からか、そういった声はなくなり、ほぼ絶賛の声しか聞こえなくなった。豚は豚でも「世界一可愛い豚」と褒める者もいる。

確かに、14歳のデビュー当時と20歳の現在とでは顔も変わっているし、事務所も移籍した。とはいえ、その評価が180度変わるほどルックスが劇的に変わったわけでもなく、また売り方が大きく変わったわけでもない。ならどうして…、というところでずっと悩んでいる。

多分、グラビアアイドルに詳しい人なら、現在のトレンドや細かな背景などを理由に説明できるんだろうけど、残念ながら僕にはその知識はない。ただ、なんとなく「“可愛い”と公に言える分水嶺を超えたんだろう」ということだけは分かる。

グラビアアイドルに限らず、誰かを「可愛い」とか「好きだ」と言うのは、たとえ本人に直接言うのではなくても恐いものだ。なぜなら、その「好意の表明」によって、自分の評価軸を他者に晒すことになるから。他者から「あんなのが好きなの?」と言われることは、自分自身を否定されるのにも等しい。

個人的な記憶として、特に中学や高校時代の恋愛における“他者評価”は想像以上に巨大な影響力を発揮していたような気がする。自分が「いいな」と思っている子でも、周りの友達からの評価が低かったりすると「もしかして自分は凄く間違った選択をしてるんじゃないか?」なんて考えが頭を過ぎってしまう。

僕にも苦い思い出がある。高校に入ったばかりのころ、初めて女の子と付き合うことになった時、プリクラを見せた友人連中から馬鹿にされて、それを気にしたせいで微妙な感じになって結局別れてしまった。凄く恥ずかしい話だし、今考えると馬鹿馬鹿しいのだが、こういう経験をしているのは多分僕だけじゃないはず(だと思いたい)。

今だったら間違いなく「でも好きなんだよ!」とか「別に誰かに褒められたくて付き合ってるわけじゃない」とか色々返せるんだろうが、思春期にはただでさえ「恋愛=恥ずかしいもの」という意識があり、さらに他者評価との適切な距離感も分からなかったから、うまく対処できなかったのだろう。

真面目に考えるなら、恋愛におけるパートナーはアクセサリーじゃないし、他者からの評価を気にする類のものでもないのだけれど、そうは言ってもノイズとして処理するにはあまりに大き過ぎる。特に、思春期ではそれがノイズであることにも気付かないし、処理の方法も分からないから容易に流されてしまう。

思春期の恋愛における『君に届け』の風早君みたいな存在は稀有であり、稀有であるからこそあれほどの存在感を発揮しているんだろうけど、ただ彼があのように振舞えるのは“彼自身の他者評価が高いから”でもあり、下手な人間があれをやると“二人揃って下層階級へ”となりかねないのが恐ろしいところだ。「他者評価」の基準は曖昧で、絶対評価相対評価ではない、という点が厄介なポイントであり、同時にそこが突破口でもあるんだと思う。

また、ひとつ確実に言えるのは、思春期の男子連中が語る「女の子の評価」ほど周りに流されやすいものもない、ということ。集団では「あいつはブス」とか「あれはナシ」とか言うが、集団から離れて個人的な意見を聞くと「実は結構可愛いと思ってた」とか「あれ?お前も?」なんてことになるのもしばしば。友達同士で「クラスの誰が好きか」という話をしている時に、自分が本当に好きな子の名前は言えずに、あえて他のみんなからの評価が高い子の名前を挙げた、なんて経験がある人も結構いるんじゃないだろうか。

たとえば、マンガやアニメなんかで「地味だった眼鏡っ娘がメガネを外した途端モテだした」みたいな話がよくあるけど、そういう場合も、「イメチェン」で本当に可愛くなったというより、それが「公に“可愛い”と言える分水嶺」を越えるきっかけとして機能していると考えたほうがリアルだ。上の篠崎愛のケースも、多分そういうことなんだろう。女子のことはよく分からないが、似たようなものなんじゃないかな。

だから、「恋愛は皆に隠れてする」というのは、思春期において他者評価というノイズから自分と相手を守るための合理的な選択なのかもしれない。隠れて恋愛することの最大のメリットは、「ノイズから離れてゆっくり二人の関係が構築できること」であり、ある程度まで構築された関係は多少の他者評価では揺るがないから、いずれかの時点で周囲にばれても色々と防壁が敷ける。最悪は付き合い始めでいきなり他者評価にさらされることだろう。

ということでおっさんが若人に送る役に立つんだか立たないんだか良く分からない恋愛アドバイスとしては、(1)恋愛における他者評価はノイズにしかならない。(2)他者評価は集団になると変な方向に歪むから信用するな。(3)ノイズ処理は大変なので、隠れて付き合うのも良い選択。という感じだろうか。

とても馬鹿馬鹿しい話だが、誰もが馬鹿馬鹿しいと思いながらもそれをやめられないのが人間の性だ。ついでに言えば、その「馬鹿馬鹿しさ」は思春期が終ったあともついてまわる。男女問わず、大人になっても、その手の「品評会」をやめない人たちはたくさんいる。そういう光景に遭遇する度に、後で「いい歳こいて中学生レベルの会話してんじゃねーよこの馬鹿」とつっこんだりしてはいるが、しかしそれに流されてしまう自分もいて、いい加減うんざりする。

世の中には、自分のことよりも他人のことを、自分の持ち物よりも他人の持ち物のことを話すのが好きな人が、結構な割合でいるものだ。「発言小町」なんかを見てると特にそう思う。そういう“面倒くさいもの”との距離の取り方を学ぶのも、「通過儀礼としての思春期の恋愛」における役割のひとつなのかもしれない。

フットボールと反ユダヤ

今週、イギリスのスポーツメディアでは、ロンドンをホームタウンとするフットボールクラブ「トットナム・ホットスパー」(以下スパーズ)を巡る一連の騒動が話題となりました。

下記にその経緯をまとめてみます。

・11月21日深夜
ヨーロッパリーグの試合観戦のためローマを訪れていたスパーズのサポーターが、試合前日にローマ市内のパブで謎の覆面集団に襲撃され、7名が負傷、うち1名はナイフで刺され重症を負うという事件が発生。当初、対戦相手であるSSラツィオのサポーターによる犯行かと思われたが、拘束した犯人を調べた結果、同じローマをホームタウンとするASローマのウルトラス(熱狂的サポーター)の犯行であることが判明した。
ローマでトッテナムサポーターが襲われる、ラツィオのファンの犯行か 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
覆面集団がトッテナムサポーターを襲撃、真犯人はラツィオの宿敵ローマのウルトラスか | サッカーキング


・11月22日
前日の事件がありながらも試合は予定通り行われたが、その試合中にラツィオサポーターの一部から「ユダヤトットナム」など反ユダヤ的なチャントが浴びせられ、さらに「パレスチナを開放しろ!」という横断幕が掲げられた。
ラツィオ対トッテナムで人種差別行為 反ユダヤが狙い | Goal.com


・11月25日
プレミアリーグ第13節、スパーズ対ウェスト・ハムの試合中に、ウェスト・ハムのサポーターから「ガスの口真似」をはじめとする反ユダヤ的なチャントが浴びせられ、試合後に5名のサポーターが逮捕、うち1名をスタジアムへの立入禁止にするなど処分が行われた。なお、チャントの内容は下記のようなもの。


"Can we stab you every week"
※21日の事件と同じ事を毎週末できるという意味


"viva-Lazio"
ラツィオを称えるチャント。ラツィオムッソリーニのお気に入りクラブだったこともあり、サポーターに極右(というかネオナチ)が多く、ハーケンクロイツや人種差別的な段幕を掲げることが頻繁にある。


"there’s only one Paolo di Canio"
ディ・カーニオは“ラツィオの元ウルトラ”という出自を持つラツィアーレのアイドル的な選手で、またウェスト・ハムにも在籍していたことがある。現役時代には度々“ナチ式敬礼”をして問題となっていた(本人は「古代ローマ式」と説明)。


"Adolf Hitler's coming to get you"
※直接的すぎるので解説の必要なし。


ウェスト・ハム、トッテナム戦での人種差別行為でサポーターが逮捕 クラブは出入り禁止に | Goal.com
West Ham fans sick chants at White Hart Lane - including references to Hitler and stabbing of Spurs fan in Rome - Mirror Online

上にまとめた通り、スパーズの選手やフロント、そしてサポーターにとっては次々にトラブルに巻き込まれる悪夢のような一週間だったのではないでしょうか。

このようなトラブルが起こる背景には、スパーズのクラブとしてのイメージが深く関係しています。スパーズが本拠地とするホワイト・ハート・レーンは、ロンドンの中でも特にユダヤ人が多く住む地区に隣接しており、そのため、スパーズのサポーターは、相手サポーターから度々「Yido、Yiddo(イドー:ユダヤ人の蔑称)」と罵られていました。やがて、スパーズのサポーター達はそれに対抗するために自ら進んで「イドー」と名乗るようになり、ダビデの星をフラッグにするなど、ユダヤ的な意匠を好んで利用するようになっていきました。結果、“スパーズ=ユダヤのクラブ”というイメージが定着し、上記のように対戦相手から“反ユダヤ的表現”によって攻撃されるようになった、というわけです。

ユダヤのクラブ”というイメージを持つクラブは他にもいくつかあり、中でもオランダのアヤックスが有名です。アヤックスのサポーターは自分たちを「super joden」と呼びますが、これは“F-SIDE”というサポーターグループが、欧州カップ戦で対戦したスパーズのサポーターから影響を受けたことがきっかけだと言われています。なお、ライバルチームであるフェイエノールトと対戦する際には、下のような“反ユダヤ的チャント”が歌われることが通例です。

"HamasHamas!Joden aan het gas!"(ハマスハマス!ユダ公にガスを!)

先週の事件でもラツィオのサポーターが「パレスチナを開放しろ!」という横断幕を掲げていましたが、ここではイスラム過激派の「ハマス」が登場します。とはいえ、ラツィオのサポーターにしろフェイエノールトのサポーターにしろ本気で「パレスチナ解放」なんてことを求めているわけではなく、単に「敵の敵は味方」という形で「あいつらに痛い目を見せてやれ!」と言っているに過ぎません。

一方、“ユダヤ人”を名乗り、ユダヤの意匠を掲げるスパーズやアヤックスのサポーターにしても、その大半は非ユダヤ人であり、単に自分たちのアイデンティティの依り代として“ユダヤ”を利用しているいるに過ぎません。そのため、それぞれの国に住むユダヤ人の中には、反ユダヤ的なチャントよりも、彼らの“ユダヤを名乗る行為”の方こそ問題だとする人も少なくありません。実際、それぞれのクラブは、国内外のユダヤ系団体から何度も改善の要望を受けていますが、ファン・カルチャーを上から押さえつけることは難しく、特に有効な対策はとられていないのが現状です。

このように、一般的にタブーとされる“反ユダヤ”や“ホロコースト”に関しても、フットボール・カルチャーにおいては必ずしもその限りではありません。世界28都市のダービーマッチをまとめた『ダービー!!』(アンディ・ミッテン著)には、ハポエル・テル・アビブとマッカビ・テル・アビブテル・アビブ・ダービーにおいて、「奴らに、もう一度ホロコーストを!」というチャントが歌われたことが紹介されています。“民族の悲劇”であるはずのホロコーストですら、熱狂的なフットボール・ファンにとっては「相手をやり込めるための道具」になってしまうわけですね。

さて、上では一方的にやられているように見えるスパーズのサポーターですが、いつも黙ってやられるわけではありません。最後に、かつてスパーズのサポーターが行ったユーモラスな反撃を紹介してこのエントリのオチとしたいと思います。

1980年代に、マンチェスター・シティのサポーターが、スパーズのファンに対してこのようなチャントを歌った。


We'll be running around Tottenham with our pricks hanging out tonight,
(俺達は今夜、チンコ丸出しでトットナム中を走りまわる)

We'll be running around Tottenham with our pricks hanging out tonight,
(俺達は今夜、チンコ丸出しでトットナム中を走りまわる)

Singing I've got a foreskin, I've got a foreskin, I've got a foreskin and you ain't
(俺にはチンコの皮がある、俺にはチンコの皮がある、俺にはあるけどお前らにチンコの皮はない)

We've got foreskins, we've got foreskins, you ain't.”
(俺達にはチンコの皮がある、俺達にはチンコの皮がある、俺達にはあるけどお前らにはない)


スパーズのサポーター達は、ユダヤ人サポーターを何人か連れてくると、彼らのパンツを下ろし、シティのサポーターに向かってチンコを振らせることでそれに対抗した。

More on the Jewish Football Club thing | mireille + mischa

リスク管理における“A(発生確率)×B(被害)=∞”という無意味な計算式


↑リスクに敏感な人のファッション。ノアの箱舟に乗れなくっても余裕だぜ!


ひさびさー。ちょっとした揉め事ー。


リスク管理を考えれば原発には疑問 - 地下生活者の手遊び

tikani_nemuru_M セルクマ inumash あのな、B=∞だったらA=0でなければA×B=∞になっちゃうだろ。つまりゼロリスクを求めるのが合理的となるんだということすら読めないの? 馬鹿がドヤ顔で鳴いてるんじゃねえよ。顔あらって出直せ。

はてなブックマーク - リスク管理を考えれば原発には疑問 - 地下生活者の手遊び

さて、リスク管理において、まず「最悪の被害」を想定することは前提ですが、しかしその値として被害値を“∞”にすることは基本的にありません。必ずなんらかの形で数値化・指標化します。それをしないとリスク査定できませんからね。ましてや、それを理由に“A=0にしなければならない”という結論を導き出すこともありません。それは実際に何も考えていないのと同じですので。

地下猫さんの言うとおり“A=発生確率”はゼロになることはありません。と同時に、被害想定を際限なく拡大していけば、どのような微細な事象でも“破滅的な被害”を想定できてしまいます。ですから“B(被害)”に∞を代入する行為に意味はありません。

ご自身で述べている通り、リスクを考える上では“A(発生確率)”と“B(被害)”のバランスが重要となります。言うまでもないことですが、基本的なリスクマネジメントの方法は“A(発生確率)に関連する要因”と“B(被害)に関連する要因”を詳細に分析し、「どの程度の被害が、どの程度の確率で発生するか」を細かくステージ分けしてその内容を検討する形です。その際、“Aと比較してBが大きすぎる”あるいは“Bは小さいがAの確率が高すぎる”と判断されれば、その行為自体を取りやめ、“AまたはBを0にする”ことも選択肢としてはあり得ます。

しかし、“B(被害)”に∞を代入することが許されるならば、上に書いたようなプロセスは全く無意味なものとなります。故に、リスクを考える上では“B=∞だったらA=0でなければA×B=∞になっちゃう”という計算式にも、またそれを根拠にした“原発に絶対確実な安全性を求めるのは当然”とか“ゼロリスクを求めるのが合理的”という言説にも意味はありません。端的に、ご自身が解説された「リスクに関する考え方」を思いきり脇にぶん投げる発言であるとしか思えませんよ。


ついでに、原子力に関しては“A(発生確率)”に対して“B(被害)”が大きすぎる技術(少なくとも、現在は)だという地下猫さんの意見に同意します。リスクを低減させる方法としては、おおまかに「“A(発生確率)”をゼロの近似値に近づける運用プロセス」と「B(被害)をリカバーする技術の導入」という方法がありますが、そのどちらも現在のところ上手く行っているとは言えません。チェルノブイリやスリーマイルの例に限らず、原子力の利用に関する事故やトラブルの発生確率は決して低いとは言えないでしょうし、同時にその被害をリカバーする技術は実用化の目処が立っていません。

ですが、現在の生活様式やコストなどを考えると、ただちに原子力の利用を停止するわけにもいかないでしょう。故にリスクを低減すべく現行の運用体制にパッチを当てながら、代替エネルギーの研究・育成を続け、長期的に移行を図る形が妥当であると考えます(急進的な意見・方法には反対)。

これが僕の基本的な考え方ですよ。「絶対確実な安全性なんて存在しねーよなぁ」と思ったのでそのままブコメ書いたら“反原発反対論者認定”されちゃいましたけどね。


あと関係ないけど“∞の被害”がどんな被害か想像すると楽しいですよねー。『ミスト』みたいに次元が崩壊して謎のクリーチャーが大量発生するとか想像したんですが、それじゃ“∞の被害”とは言えないしなぁ。↓こんなん出てきたらワクワクするんだけど。

googleで“本田朋子”を検索すると・・・


本田朋子 - Google 検索


くっそ!長谷部くっそ!


google先生空気読みすぎです。“黒板に相合傘”もgoogleほどの世界的企業がやるとスケール感が違いますね。

サッカーファンも温かい目で見守っております。googleも公認のカップルである2人に幸あれ!



http://guapo.cocolog-nifty.com/blog/cat20956959/

「ゼロ年代の音楽」と「初音ミク」

最近読んで面白かった音楽を巡るいくつかのテキストで、何人かが同じ現象を別の言葉、別の視点で語っていたので最近考えていたことも含めてつらつらと。

(※以下僕の適当な要約や主観を含むので、この手の話に興味がある皆様におかれましては原典や個々のコンテンツに当たられたし。あとアーティスト名は敬称略。)


ひとつは井手口彰典さんの『ネットワーク・ミュージッキング』という本。ここでは、楽曲がCDやレコードなど物理的な制限の強い物理メディアから、取得・複製の自由度が高いデジタルデータをネットワークベースで交換する時代となったことを背景に、音楽とリスナーを巡る関係が、「ものを持つこと」に意味を見出す“所有”から、コミュニケーションなど様々な欲求を瞬間的に昇華するために必要なコンテンツを膨大な「リスト」から都度選択する“参照”に移行したと論じられている。

ふたつ目はid:loco2kitさんの昨日のエントリ。ここでは、リスナー側の視聴環境の変化が90年代から続く並列化と細分化をさらに加速させ、その“狭いサークル”の中で様々な情報が共有されているという前提で新たな表現が生み出されていった結果、その前提となる知識や情報が“圧縮記号化”され、ひとつの作品、ひとつの音により多くの情報が込められることとなった、と論じられている。そして“圧縮”されたそれらの“記号”における、(他の“狭いサークル”で生まれた)別の“圧縮記号”との隣接・反応という可能性も示唆されている。

最後に原雅明さんの『音楽から解き放たれるために』に収録されている「word and sound」及び「recycling」というタイトルの論考。ここでは、コード9やフロスティの現状認識、またLAの「ダブラブ」が展開している様々なアクションを下敷きに、音楽における“並列化”の駆動装置でもあるDJカルチャー、サンプリングカルチャーが、歴史との関係性や物語性などの重層的な意味を包括するようになったことで、過去蓄積されてきたアーカイブから最適なサウンドを抽出し現在に蘇らせる“リサイクル”という行為が可能となり、スタイルやフォームの“更新”という脅迫観念から音楽を開放し、より豊かな視聴体験をリスナーに提供することが可能になると論じられている。

これらは「ゼロ年代の音楽」を語る上で必須の論考と言っても良いだろう。また、いち音楽好きとしてもここで語られている現状認識と自分が体験してきた(いる)それは相違ないもののように思う。


そして、今日の(日本における)音楽の現場において、これらの現象のサンプルとして最も的確な“アーティスト”が「初音ミク」であることに疑いの余地はない。

ミクが「圧縮記号の集積」であることは登場直後から語られていたことであるし、“情報の圧縮”という傾向は、歌詞やサウンド面に留まらず、ヴィジュアルや付属するタグからも読み取ることができる。

また彼女に関連したコンテンツの大半はCDやレコードを中心とした旧来の視聴形態ではなく、ニコニコ動画を中心としたネットワークベースの(井手口さんの言葉を借りれば“参照”という)視聴形態とともに広まってきたことは今更指摘するまでもない事実だ。
(ただし「初音ミク」においてでさえ、CDなど物理メディアを経由した“所有”という視聴形態を求めるリスナーが少なくないことは頭に入れておくべきだろう)。

原雅明さんの言う“サウンドのリサイクル”という現象も、初音ミクというフィルターを通じて行われている。過去の楽曲の掘り起こしにミクが利用されることはもちろん、特定のジャンルで使用されてい過去の音像を再構成し、現在のリスナーに提示するといったコンテンツも増えつつある(個人的には“ミクトロニカ”周辺にそのような傾向を強く感じた)。


現在のところ「初音ミク」にはおおまかに2つの役割が与えられている。

ひとつは“キャラクターとしての初音ミク”。もうひとつは“メディアとしての初音ミク”。“メディア”という言葉を言い換えるなら“ヴィークル”や“ディスプレイ”になるだろうか。いずれにせよ、上に並べた現象はすべてミクの後者の役割によって生まれたものである。

ジャンルを問わず、ある技術や表現を広域に広めるためのツールとして「初音ミク」が選ばれていることは、関連コンテンツの量やバリエーションからも明らかだ。ミクはその内実の希薄さと(ヴィジュアルなどのいくつかの要素を除いて)いくらでも書き換え可能な代替可能性によって“メディア”としての役割を十二分に果たすことが可能になっている。

その傾向はミクに関連した音楽からも見て取れる。初音ミクを使用した楽曲のうち、“キャラクターとしての初音ミク”に依存した、あるいはそれを補強するタイプのものと、それを無視する、あるいは全く別のキャラクターが与えられるものの二つに大別されることは過去何度か語られてきた。

しかし、ミク自身がそうであるように、それらは必ずしも分離されるわけではない。ミクが持つもともとの文脈を巧みに活かしながら、あるいはそれを解体・再構築し、全く別の文脈、全く別の音楽的価値を付加して提示しようとするクリエイターも存在する。

そのひとつの例がimoutoidによる『ファインダー(imoutoid's Finder Is Not Desktop Experience Remix)』だろう。

主旋律はほぼ原曲そのままであり、また楽曲を構成する個々の音やリズムもひとつひとつを解体していけば新しいものは見当たらない。いずれも“どこかで聞いた音”であり、それぞれに個別の意味や感情、記憶が内包されている。しかし、この楽曲ではそれらの音が巧み配置される(本来あるべき位置からずらされたり、わずかに揺らがされたりする)ことによって、「テクノ」や「エレクトロ」「エレクトロニカ」などとは違った、“どこかで聞いたことがあるのにいちども聞いたことがない音楽”としか言いようがないサウンドスケープを構築している(これと同じ感覚を竹村延和やレイ・ハラカミを初めて聞いたときに感じた)。

そして、それらバラバラに配置された音と、そこに内包された意味や感情や記憶が、「初音ミク」というキャラクターが持つ文脈に統合され、ひとつの“新しい物語”に昇華されていく様は圧巻としか言いようがない(正直、僕のこのテキストなんて蛇足もいいところだ。皆いいヘッドホンでこの曲を聴いてくれ)。多くの人が言う通り、初音ミク関連の楽曲の中でも現在最高の一曲であり、また2009年を代表するトラックでもある。


そして、惜しくも今年4月に急逝した彼と同世代のクリエイターたちによって同種の試みが行われている。「サークルおかのうえ」による『Rebuild the path:Catalinaosy』がそれだ。


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詳細は告知用サイトとmixを参照して欲しいが、ミク関連の常連クリエイターとは別のフィールドにいる、しかし非常に面白い面子が集まっている。冒頭を飾るtofubeatsのエディットっぷりは既に貫禄が出てきたし(“彼の親友”であるdj newtownの最新トラックも素晴しいので聞いてくれ!)、Nyolfenやoutstandingによる端正なトラックはそのままクラブヒットしてもおかしくない(特にoutstandingのハウス・トラックは最高に好みな音)。

しかしこのコンピの白眉はSilvanian Familiesによる「キミの星を歌いにいくとちゅう」のリミックスだろう。アクフェン風のカットアップから始まって、様々な音やリズムが数小節単位で目まぐるしく入れ替わりながら、しかし決して破綻することがない構成はさすがの一言。うまく言語化できないのが正直歯痒い。

このCDは明日(っつーか今日じゃねぇか!)のコミケ領布予定。とらのあなでも委託されるとのこと。初音ミク関連の曲をあまり聴いてこなかった人や、正直好きじゃないという人は是非この作品を聴いてみて欲しい。「初音ミク」というキャラクターへの依存度はそれほど高くなく、またどのトラックもそのままクラブやポップ・フィールドに出しても通用するほどのクオリティを維持しているのですんなり聴けると思う。苦手な人にとっても、既存の「初音ミク」のイメージを書き換えてくれる作品となるはずだ。同人CDにありがちなマスタリングの不具合もない。

初音ミクに関係なく“注目の若手クリエイター見本市”として手元に置いておくのもいい。loco2kitさんの言う“圧縮記号をより肉体的に扱う新世代”は、恐らく彼らのようなクリエイターを指しているんだろうから。


さて、つらつらと書いてきたが、エントリ冒頭、3つの論考をこの順番で並べたのは理由があって、それは井手口さんが論ずるリスナーの聴取スタイルの変遷と、loco2kitさんが論ずる音楽における表現スタイルの変遷が、最終的に原雅明さんが語る“循環と再生”に結実して欲しいというごく個人的な願望からである。

音楽産業を巡っては最近悪い話しか出てきていないが、しかし上記のような新しい感覚を持った世代が新しい方法で自らの音楽を広めようとしているのを見ると、行き詰っているのは音楽“産業”だけで、実のところ音楽を取り巻く環境はより自由かつ豊かになっているように思える。

なんにせよ、次の10年でもまた素晴しい音楽に出会えることを楽しみにしております。

ネットワーク・ミュージッキング―「参照の時代」の音楽文化 (双書音楽文化の現在)

ネットワーク・ミュージッキング―「参照の時代」の音楽文化 (双書音楽文化の現在)

音楽から解き放たれるために? ──21世紀のサウンド・リサイクル

音楽から解き放たれるために? ──21世紀のサウンド・リサイクル

『2009年ベストアルバムを勝手に決めようぜ』Ustまとめ。

http://d.hatena.ne.jp/cinematic/20091224/p1

ついったらーが選ぶ【2008年のベストアルバム】まとめ - 想像力はベッドルームと路上からの2009年版。 現在進行中。

ここ↓
http://www.ustream.tv/channel/cinematic


【サンプル】
■UKロック(@inumashセレクト)
・Fuck Buttons 『Tarot Sport』
・Wild Beasts 『Two Dancers』
・Jamie T『Kings and Queens』
Basement Jaxx『Scars』
・Micachu & The Shapes『Jewellery』


■USインディ(@TTPCセレクト)
・Neko Case『Middle Cyclone』
Superchunk『Leaves in the Gutter EP』
・Built to Spill『There is no Enemy』
・The Mountain Goats『Life of the World to Come』
・Headlights『Wild Life』


■日本語ロック(@Quecy_セレクト)
クチロロ『everyday is a symphony』
・younGSounds『bootleg of ys』
クラムボン『re-clammbon2』
ECD『天国よりマシなパンの耳』
神聖かまってちゃんYou tubeやニコニコで配信した楽曲全て』


HIPHOP(@ohnohセレクト)
Mos Def『The Ecstatic』
・Ras G『Brotha from Anotha Planet』
・The Sa-Ra Creative Partners『Nuclear Evolution - The Age of Love』
Q-Tip『Kamaal The Abstract』
Hudson Mohawke『Butter』


日本語ラップ(@Gonbutoセレクト)
サイプレス上野とロベルト吉野『Wonder Wheel』
・SkyfIsh『Raw Price Music』
Zen-La-Rock『The Night of Art』
環Roy×Dj Yui『copydogs』
Tono from Ciazoo『Tono Sapiens』


■テクノ(@junkMAセレクト)
・V.A.『Herve Presents : Cheap Thrills Vol.1』
Moritz von Oswald Trio『Vertical Ascent』
・桑田つとむ『This is My House』
・Moderat『Moderat』
Planetary Assault Systems『Temporary Suspension』


ドラムンベース(@cinematicセレクト)
・Fanu『Homefree』
・Original Sin『Grow Your Wings』
・Mistabishi『Drop
・The Qemists『Join The Q』
・Silver『Dance Dance Dance』


ダブステップ(@ecrnセレクト)
・MARTYN『GREAT LENGTHS』
・KING MIDAS SOUND『Waiting For You』
・2562『Unbalance』
・PEVERELIST『Jarvik Mindstate』
・RSD『Good Energy: A Singles Collection』
・Caspa『Everybody's Talking, Nobody's Listening』


DJWILDPARTYスペシャルセレクト
・dj newtown『cutegirl(.jpg)』
・芳川よしの『Beyond The Chasmpoka』
・like ittoecutter『best party ever』
・squire of gothos『RAVE LOAD EPB』
・Buraka Som Sistema『Kurum (Dj Manaia Ultimate Remix)』
・JACK BEATS『GET DOWN』
・Mistabishi『Printer Jam (Barbarix Remix)』
Dizzee Rascal『Bonkers (Doorly Remix)』
・Stagga『timewarp』


Vocaloid(@terasuyセレクト)
・super cell『super cell』
ボーカロイドの音楽CD市場は、2008年は同人が大半を占めていた中、2009年は本格的にメジャー市場に進出する重要な年になった。口火を切ったのが3月に発売された、supercellのアルバム。2008冬コミで頒布したものをリマスタリングし、パッケージとしての価値を高める意匠を凝らしたデザインで話題を呼んだ。TVCMの配信から渋谷ジャックのような画一的なプロモーション手段は、逆にこれまでボーカロイドを知らない人々に対しての訴求効果を見せ、オリコンチャートで5位以内に食い込むという快挙を成し遂げた。

初音ミク黎明期から「メルト」により多くのファンを獲得し、ボーカロイド界の象徴とも呼べるクリエイター集団の勢いはまだまだ続くように思える。

・toy box『OneRoom』
軽めのテクノポップから大衆受けするロックサウンド。一般的には衰退していく一方のジャンルも、ミクというキャラクターを載せることで一定のファンを獲得した。CDの完成度は高い。

・Hatsune Miku Orchestra『Paw Lab.』
ミクを使いYMOをカバーする絶妙な組み合わせで人気を博した。動画の再整数は並だったのだが、アキバblogで取り上げられたことも含め同人ショップで瞬殺される程だった。同人CDにも関わらず、マスタリングの精度が非常に高いことでも話題になる。

・アヒルホスピタル『捻れたアヒル
ひと癖もふた癖もあるクリエイターが集まる「捻れたアヒル」から頒布された同人コンピレーション。ブレイクビーツからポストロック、エレクトロニカなど一般的な潮流からは外れた作品を集める。
商業同人含め、ボカロのコンピレーションは数多くリリースされているが、一曲一曲の当たり度が高く、癖の強い作品は中々見られない。


・逆方向の街『ゆや』(2008/12/28頒布)
テックハウスからエレクトロニカブレイクコアテクノポップ、クラブ色の強い音楽ジャンルを横断しつつも、キャッチーな作品に仕上げるゆうゆPのセカンドアルバム。作者が音楽を楽しんでいることを感じることの出来る多彩な一枚に仕上がっている。
未だメジャーデビューしない人気クリエイターの一人。


■アニソン(@ykicセレクト)※曲単位
花澤香菜恋愛サーキュレーション
堀江由衣 『プレパレード』
2MUCH CREW『BUBLE YOU』
livetune feat. 初音ミク『ファインダー(imoutoid's "Finder Is Not Desktop
Experience Remix")』
ももいろクローバーももいろパンチ (tofubeats remix)』

以下ykicさんからのコメント

2009年、今日ほど歌の価値を問われた年はないだろう。初音ミクPerfumeの勃興と機械的に処理された歌い手はに区間を喪失すると共に失われゆく大文字の物語を実体と活動によって回帰する運動となって顕れたがしかし、今日のアーカイブが無文脈に散乱するインターネット空間とDAWの整備された音楽作成環境において全ての音はフラットであり、やはりそれら全ては材料であることに代わりはない。しかし、だから何だと言うのだろう。文脈は、歴史は、いま現代の力強い輝きによってのみ照らされるものなのだから、感傷に唾棄する我々はより力強く物語る、より美しく放たれる音の驚きに先導される。恋愛サーキュレーションがマチズモを掲げるギャングスタラップに対する美少女からの解答であることは聡明なる諸君らには明白だ。美少女が美少女であることに「詞=物語」は必要ない。であるならば、美少女を信仰するエディターにそれが必要だろうか?
否、tumblr的に並べられ喪失された文脈を再構築し、並走し侵食し合う同時多発的多次元世界を作り上げる純粋の信仰に駆られたエディターの脱構築コミケット精神はきっと瞬間の沸騰だろう。ここに、2009年、ゼロ年代最後の年を駆け抜けた「アニソン」を集約した。ここに批評的なる曲はなく、我々が我々のルールに乗っとって虚構を創り上げる余地がある。彼らを物語るのは彼らの使命ではなく、我々に課せられたご褒美です。

「スポーツと政治は別」

http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2009/12/11/01.html

1999年3月27日、グランパスヴィッセル戦。福田健二のゴールをアシストしたストイコビッチは、着ていたユニフォームをたくし上げ、スタジアムに向かって咆哮した。彼と肩を組んだ福田が「これを見てくれ!」とユニフォームの下のアンダーシャツを指差す。そこにはこう書かれていた。

NATO STOP STRIKES!」(NATO空爆を止めろ!)

この試合の3日前、コソボ自治州の独立を巡る政治的緊張はついに「空爆」という最悪の事態を迎えた。ランブイエで行われていたコソボ代表団との和平交渉が決裂したこと(交渉の最終段階になって、ユーゴ国内でのNATO軍基地常設や兵士の治外法権を含む「アネックスB」と呼ばれる条項が提示されたことが決裂のきっかけとなった)を受けて、ユーゴスラビアに対するNATO軍の空爆が開始されたのだ。ピクシーのパフォーマンスはそれに対する抗議であった。

ピクシーだけではない。Jリーグをはじめ、世界各国でプレーしていたユーゴスラビア出身選手の多くがこの空爆に対する抗議行動を行った。レアル・マドリードに所属していたミヤトビッチは試合をボイコットし、アメリカ大使館の前でユーゴスラビア国旗を身に纏うパフォーマンスを行った。セリエAラツィオに所属していたミハイロビッチスタンコビッチは「PEACE NO WAR!」と書かれたTシャツを着て試合前のピッチに現れ、サポーターにメッセージを送った。リーグ1のメッツに所属していたルーキッチなどは「同胞と同じ方法で国に尽くす」と言いチームを離れ軍に志願までした。

しかし、このパフォーマンスを受けた川渕チェアマン(当時)は、「ピッチに政治を持ち込むな」としてJ1、J2所属の全チームに対し喪章を含むあらゆる政治的パフォーマンスを禁止する通達を出した(余談だが、主にユーゴスラビアの選手が活躍し、また空爆の主体ともなった欧州各国リーグではこのような禁止措置は取られていない)。「スポーツと政治は別」というわけだ。


「スポーツと政治は別」

残念ながらこれは現実を表す言葉ではない。あくまでも理想であり、願望である。そしてストイコビッチにとっては“信念”であった。木村元彦氏の言葉を借りるなら“イナット”(意地)と表現するのが最も的確かもしれない。

ボスニア内戦の際も、「クロアチア独立」を強く掲げたクロアチア民主同盟(HDZ)の党員として対外的なスポークスマンの役割を果たしたボバンとは対照的に、ストイコビッチは一貫して「スポーツと政治は別だから」と言い続けた。92年の国連制裁に伴いEURO92の出場権が剥奪された際も、その決定に怒りと落胆をあらわにしながらしかし「スポーツと政治は別」と言っている。

そんな彼が、自らの信念に背いてまで(後に彼は「あれは政治とは関係ない」と言っているが)ピッチ上でメッセージを発した。ユーゴスラビアではセルビア人、アルバニア人ボスニア人関係なく空爆の危機に晒されており、また空爆は民族間の憎悪を煽るだけで問題の解決にならないどころかそれを悪化させるだけだと知っていたからだ。

現にこの空爆を境にコソボ自治州での戦闘は激化し、セルビアアルバニア双方の民兵部隊が市民の暴行・略奪・殺害を行う事態にまで発展した。と同時にNATO軍の空爆もその対象範囲を広げ、非軍事目標である放送局や薬品工場、発電所空爆で破壊された。コソボから避難したアルバニア人もかなりの数がこの空爆の犠牲になっている。

しかし、その彼の悲痛な叫びも「スポーツと政治は別」というお決まりの論理で封じ込められた。彼とユーゴスラビア代表がまさしく“政治的な理由”によって長い間国際舞台から締め出されていたにもかかわらず。なんという皮肉だろう。


「スポーツと政治は別」

それは現実ではない。理想であり願望である。

「スポーツと政治は別」

それはストイコビッチの信念であり、そして彼を2度裏切った言葉。

「スポーツと政治は別」

そしてある人々にとっては、厄介事を回避する為のレトリックでしかない言葉。

「スポーツと政治は別」

川渕三郎日本サッカー協会名誉会長、今貴方が言うべき言葉はなんですか?

 ご列席の皆様、


 民族融和には何が必要なのでしょうか。単に「民族融和は大事だ」と何百回繰り返したところで、それはただの言葉に過ぎないでしょう。私は真に必要なものはこの「架け橋」であると思います。人々の交流なしに融和は生まれません。交流を生むためにはきっかけが必要であり、そのきっかけとしてフットボールは大きな役割を果たしています。


 例えば、毎年トヨタカップが開かれる東京には、地球の裏側から何千というサポーターが駆けつけます。フットボールの魔法は、瞬く間に国境や大陸を超える力を持っているのです。この魔法を民族と民族の壁を消すために使えないものだろうか、私はいつも考えるのです。西バルカンの各国が親善試合を定期的に行うというのはどうでしょうか。既に近隣諸国との公式戦は行われていますが、公式戦はどうしても勝つことが全てに優先してしまうので民族融和という意味では、親善試合の開催が重要です。既にBHとセルビア・モンテネグロの間では親善試合が行われております。これから少しずつではありますが、多くの親善試合を企画していきたいと思っています。代表チームが試合のために近隣諸国に移動すれば、サポーターも移動します。まずは人々が移動する、交流するということが大事だと思います。そうやって少しずつ少しずつ、壁が無くなっていけば良いと思っています。


(中略)


私は、一貫して「スポーツと政治は別である」と言い続けてきました。その思いは今も同じです。私は政治家ではなく、国のシステムや経済政策を変えることは出来ません。しかし、フットボールという共通の言語、誰もが知っている言葉、誰もが愛するテーマを通じて、フットボール選手が平和のために貢献することを願っており、それは可能だと信じています。


 私の大好きな映画「アンダーグラウンド」の言葉にもあります。「この物語に終わりはない」と。ようやく西バルカンは平和と安定に向けて歩み始めました。物語は始まったばかりであり、私もフットボールを通じて民族融和の物語に参加していきたいと考えています。多くの人々、特に未来を担う子供達がこの物語に参加してくれることを願ってやみません。


有り難うございました。


平 和 親 善 大 使
ドラガン・ストイコビッチ


ストイコビッチ平和親善大使スピーチ -西バルカン平和定着・経済発展閣僚会合-

悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記 (集英社文庫)

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