「待ち組」発言に乗ったら「負け組」。

inumash2006-02-06

また小泉発言のおかげでネットが賑わっている。

「負け組」だからといって卑下することはありません、難しい問題に挑んだことは立派なことだと思います。「負け組」と言われている人々にもこれからチャンスをいっぱい提供して、一度や二度失敗しても再挑戦することができる社会にしていかなければならないと思っています。

 むしろ、「勝ち組」「負け組」のほかに、挑戦しないで待っている人「待ち組」がいると思います。そういう人々も、持てる力を存分に発揮し、一人ひとりの創意工夫を活かすことができる社会にしなくてはなりません。

ここから見えるのは、id:kmizusawaさんが指摘しているような、『「負け組」の意識を「勝ち組」への不満から逸らす為に作られた「待ち組」というカテゴリー。』という構図を作り出す事はもちろんなんだけど、それによって階層を分断する事だけが目的ではないような気がする。

小泉政権下の自民党が行ってきた広報戦略はある意味一貫していて、比較的一般に流通しやすい言葉を選んで宣伝し、言葉と概念を流通させることによって、その是非や定義に注目させ、本質的な問題から目を逸らさせる事だと思う。

例えば自衛隊派遣における「非戦闘地域」の定義がそうだし(結局、「非戦闘地域」という言葉の定義のみが問題となり、「イラク自衛隊を派遣する事の是非」という本質的な議論は不十分なままだった)、「郵政民営化」に関しても多くの人がその本質を理解しないまま、しかし意思決定の大きな要素となるという奇妙な事態となった。

確かに、今回の「待ち組」発言も明らかに意図されたものだと僕は思う。

実は、「負け組」だろうが「待ち組」だろうが、社会システムにおける位置は変わりが無く、現行の社会システムのままでは「頑張り」に関わらず一定の階層から脱出する事は困難である。(要は「教育」と「所得の再分配」「労働力の搾取」の話だから)

それでも尚、彼等がこんな言葉を持ち出すのは何故か。

上段の分断の戦略とは別に、絶えず問題の本質ではなく周縁部分を取り上げる事で、解決に至る議論を骨抜きにし、問題を周縁部分に閉じ込めておくという意図があるのではないか。

つまり、「待ち組」というわかりやすい言葉を持ち出す事によって、「問題に取り組んでいる」という一定のポーズを示す一方、「待ち組」の定義や是非という、問題の本質部分とは関係ない議論を誘発させ、問題解決に至る本質的な議論(つまりシステム論)をさせない事が目的であるように思う。

したがって、id:kmizusawaさんが指摘している通り、僕も含めて、その是非を問わずこの話題に反応した時点で彼等の戦略に乗ってしまっていると言える。

多分、最も戦略的に正しい反応は、

「はいはい。で、結局どうするのさ?」

なんだろう。


でも、この辺りの構図に気がつかない人が「負け組」に多く、結局はラベリングや罵り合いになり、何一つ問題解決の糸口が見つからないという事態になるんだろうなぁ。


※画像は『「待ち組」の中の「勝ち組」』、ロナウドです。