「本質」という概念そのものを無効化する戦術

<アンチであること>は本質でありうるか〜モジモジ君の日記。みたいな。

芸術としての評価は別にして、社会的装置としてみた場合、カウンター・カルチャーは常に既存の規範・価値観・概念に懐疑の視点を向け、それを相対化する、あるいは無効化する視点を提供してきました。

id:mojimojiさんの言う、「<現にそうである私>を力強く肯定する力」というものが魅力的であることを認める一方で、同時にそれは他者を抑圧する力にもなり得るということも自認するべきだと考えます。だからこそ、表現としての薄さは別にして、既存の価値観に対して「支配的な性規範からの逸脱」というオルタナティブな選択肢を発生させた時点で、それは既に社会的装置として有効に機能しているとは言えないでしょうか。

僕が社会において最も重要だと考えるのは、「どれだけの選択肢を確保できるか」という視点です。その選択の是非は問いません。

カウンター・カルチャーは、世界が歪んでいるかいないかに問わず、常に「正しさ」という規範を凝視し、疑問を投げかけ、それとは別の選択肢を提示します。即ち、カウンター・カルチャーは既存の価値に取って代わることを目的としているのではなく、「別の可能性」を提示し続けることによる社会のセーフティーネットとして機能するものなのではないでしょうか。

僕がアビー・ホフマンやKLFの名前を出したのは、彼らが「正しさ」という規範にちょっとした「悪意」と「ユーモア」でもって対抗しようとした点に惹かれるからです。確かに、「青い芝の会の綱領」はそれ自体力強く、胸を打つ表現だと思います。ですが、それはあくまでも「一つの視点」に過ぎません。それよりも、「悪意」や「ユーモア」に裏打ちされた、社会に対峙する場合のアイデア・戦術にこそ可能性を感じるのです。

既存の視点から離れて、絶えず別の可能性、別の選択肢を模索し続けることに、カウンター・カルチャーの魅力があるのではないかと思います。だからこそ、「日の丸・君が代」の是非を問うことはもちろん重要とした上で、そうした「制度化された思想」を如何に回避し、対抗し得るかという実践の場としての学校というものを経験することも、社会をどう捉えるか、どのように対峙するか、という視点を学ぶ意味では有効なのではないかと思います。