ミッキーマウス奪還作戦!!〜村上隆とS・スプラウス〜

inumash2006-04-27

村上隆と知的財産権〜渦状言論〜

ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記〜村上隆のDOBのモデルってミッキーマウスじゃないの?

著作権とお金とアートをめぐるお話し〜おれはおまえのパパじゃない


この件に関しては、東さんの意見と特に相違はないので、もう少し別の視点から見てみたいと思います。

東さんは村上さんに関して、

村上氏の戦略は、美術と市場という二つの世界の差異に基づいたものであり、現代美術のゲームに対する強い危機意識のうえに立てられています。村上氏には、美術家と同時に商売人の顔がある。その二重戦略は、ある視点からすれば搾取に見えるでしょうが(市場で売れないものを美術作品として高額で売り抜け、逆に美術界の評価を市場に持ち込んでまた儲けているのですから)、別の視点からは、そのような二重基準を作り出す現代社会への鋭い批判のように見える。

という部分を評価している、と言っています。

つまり、市場で流通している商業デザインを拾い上げ、「アート」という別階層にて価値増幅を図り、その「アートとしての価値」を背景にして再び市場に流通させるという構図。この構図を意識的に利用する村上さんの作品が「コンセプシャル」であり、「批評的である」ということだと思います。この部分に関しても、やはり同様の意見です。


さて、ここで僕の思考は左側にぶっ飛びます。


今回問題となった「DOB君」ですが、東さんは「ドラえもんミッキーマウスのハイブリッドなパロディ」としているものの、やはりデザインのベースとなったのは「ミッキーマウス」であることは間違いないでしょう。

では、その「ミッキーマウス」のキャラクター造詣が、劣悪な労働環境でこき使われていたディズニーのアニメーター達がその鬱憤を晴らす為にスクリーンで暴れ回させたものであること、そして、その「原初のミッキー」のアクションが、アフリカや南米からの移民労働者が働く姿を参考に作られたものであるということを村上さんは知っているのでしょうか。

平井玄は「ミッキーマウスのプロレタレタリア宣言」において、ベンヤミンミッキーマウス論を下敷きにしながら、「解放の主体としてのミッキーマウス」を語り、読者に対して、「地を這うネズミであることを自認せよ。ミッキーマウスたれ!!」とアジテートします。

後に様々な人格を付記され、「世界一愛されるネズミ」となり、今なお過剰とも言えるディズニーの管理体制下にあるあの「ミッキーマウス」がそのような出自を持つこと、そのような「コンテクスト」を村上さんは読み込んだ上で、「DOB君」に引用したのでしょうか。

「DOB君」あるいは「ミッキーマウス」に対する発言を全て読んだわけではないので確証はありませんが、恐らく上記の文脈に対しては無自覚でしょう。残念ながら彼の「DOB君」からは、ベンヤミンが評したような「天衣無縫な動き、イマジネーションとスピードと行動力で世界はどうにでも作り変えられるというメッセージをもった姿」は伝わってはきません。

東さんは「デザインの借用そのものというより、自分のコンセプトに敬意を払わないままにデザインだけ借用された、そのことへの怒りのほうが大きかったのでしょう。」と一部理解を示していますが、それだって上の例がそうであるように、彼はミッキーマウスのコンセプトに十分敬意を払っているとは思えません。「形骸そのものの借用」という「ナルミヤ」が行った行為と大差ないように思います。彼の言う「コンテクスト」なんて、結局はその程度だと言うことなのでしょう。

さらに、彼を一般的に評価する際に出てくる「価値転倒」「批評性」という文脈も非常に怪しく思えてきます。例えば村上さんともコラボレーションしたことがある、スティーブン・スプラウス(2004年死去)は、ヴィトンとのコラボレーションで「モノグラム・グラフィティ」を大ヒットさせたすぐ後に、「ターゲット」というアメリカの大手ディスカウントストアに向けて、「アメリカンランド」というデザイン・シリーズを展開し、アホみたいな値段(ビーチ・ボールが99セント、スケボーが19ドル99セント!!)で、ヴィトンに提供されたあの「モノグラフ・グラフィティ」と同種のデザインを流通させました。「価値転倒の戦略」とは、こういうことではないのでしょうか。彼のような軽やかな批評性を、村上さんが本当にもっているとは、僕には思えません。


町山さんやテラヤマアニさんが指摘している通り、彼からは搾取の構図以外の要素を読み取ることはできません。なぜなら、彼は「アート」という階層から降りてくることをしないからです。そして、そこから得た利益・要素を引用元に還元する事もない。永遠に上部(外部)からそれを「記号」や「商品」として扱うだけでしょう。

今「ミッキーマウス」を批評的に扱うというならば、その出自まで取り込んだ上で「我々のもの」としてキャラクターを奪還することではないでしょうか。つまり「ナルミヤ」がそうしたように、「我々のもの」として自由にリ・デザインし、流通させることこそ、最も「批評的な行為」と言えると思います。それもできず、またそこに込められているコンテクストを読み解くこともできずに、一体何の「批評性」なのかと、僕などは思うのですが。

しかし

これらのキャラクターは、キャラクターであると共にアート作品です。日本ではアートの社会的評価や理解度は低いままです。功利主義で、文化発展への尊敬の念乏しき,文化の民意が著しく低い国。それが日本です。

しかし,こうした現状に甘んじるのではなく、オリジナルアートの価値を社会に認識してもらうことが重要です。

これ本当にネタとしか思えませんね・・・