「デモ」に関して、僕が書きたかったのは本当はこんなことじゃなかった。

サウンドデモと公共性 - 記憶のメモ帖
2006-09-17


一昨日のサウンドデモに関するエントリを今読み返してみて、サウンドデモの意義や目的に関する理論武装はできてるんだけど、「僕がデモに参加する理由」はこれじゃないなぁと思って少し落ち込んだ。本当は、こんな小難しいこと書きたくてデモに参加してるわけじゃないんだけどね。

コメント欄でid:Dryadさんがしきりに「デモの閉鎖性と切断」について書いていて、それがとても引っかかった。僕がデモに参加するときはいつも心がけていることがあって、それは「(デモの参加者を含む)全ての人の視点を気にしないで最高に楽しむ」ということだった。理由は単純で、「本当に楽しそうな人間(集団)の周りには、それがどのようなものか分からなくても自然に人が集まるから」。それが、「デモ」という場に対する僕の最高の参加の仕方である(別にデモだけじゃない。パーティーでもライブでもそう)。ただでさえ「異物」なのに、まるで他者の顔色を伺うようにして踊ったり笑ったりしている集団に、一体誰が「混ざりたい!!」なんて思うんだろうか。

でももしかしたら、これが「閉鎖性」と言われてしまう所以なのかもしれない。僕がデモに参加する理由を問われたら、間違いなく「快楽」と答えるのだけど、では、その「快楽」というコンテクストはどこまで共有されているんだろう?

ねえ、みんな知ってるかい?まっ昼間に渋谷の街のど真ん中を堂々と歩くのは気持ちいいんだぜ。右往左往する警官を尻目に、路上から色んな人が輪に入ってくるのを見るのはとても楽しいんだよ。普段「敵」としてしか見てくれない警官も、こっちがちょっと変なアクションしたりすると吹きだしたりするんだぜ。自分の大好きな音楽が、まるでその存在を主張するみたいに路上に鳴り響くのは最高なんだぜ。本当は、僕はこの快楽を共有したいだけなんだ。もし、デモを外から眺めている貴方が、少しでも「入りたい」というアクションをしてくれれば、目の前の警官をぶん殴ってでも迎えに行くのに。

だから、id:kir_royalさんの「公共性に対する視点」や、id:quawabeさんの「サウンドデモという概念の更新」に関しても、とても重要だと思うし面白い。ただ、少なくともそれは僕の主題じゃない。

僕がいないときにこの日記を読んでくれ

そう、僕はこんなことが書きたかったんだと思う。別に、「サウンドデモの存在意義」なんて実はどうでもいいんだ。ただ、僕は路上で色んな人と直接話がしたい。「路上で」っていうのは絶対に手放さないけど。

やっぱり、快楽を言葉で伝えるのは難しい。グリーンデイの「Minority」や、ソウル・フラワー・ユニオンの「満月の夕」みたいな曲が書ければいいのにね。