文学の「サンプリング」って進んでないのかな?

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060926/p1

「古書」の値段がどのようにつけられているのか詳しく知らないけど、当然「需要と供給」の原理が働いていることは想像に難くない。

ただ、「古書」の需要のされかたは一体どのようなものなんだろう?例えば有名作家の未発表作品集とか、全然売れなかった処女作なんかは高い値段がつきそうだけど、それって「レア」以外の価値はあるのだろうか。

もちろん、コンテンツそのものの魅力はあるにせよ、「古書の魅力」って、相当限られるんじゃないだろうか。「希少性」か「値段」、それ以外に何かあるかな?「埋もれたコンテンツの発掘」?それはいいけど、では「発掘」されたコンテンツは今度はどのように流通するのだろうか?

この辺は「中古レコード」と比較してみると面白いのかもしれない。

僕は文学に詳しくはないから、「古書」というものがどんな文化を持っているのか良く分からないのだけれど、「中古レコード」と比較すると、「文化の再生産性」という意味において、大きな差異があるような気がする。


死後じゃなくても著作権を放棄したい: 古泉智浩の『オレは童貞じゃねえ!!』

記事では、「延長は個人ユーザーにはメリットがない。逆に延長により、出版もされずネットにも公開されない『眠っている作品』が増える」とあるのだが、全く同感で、オレが死んだらというか死ぬ前でも作品は絶対に埋もれて行くに決まっているのだから、むしろ著作権を早めに切り上げる制度みたいなのがあったら助かる。

上の問題は、単純に書籍における「サンプリングカルチャーの導入」によって大きく好転すると思うのだけれど、そういう考えを持ってる人はまだそんなに多くないのだろうか。

「古書」の需要にしたって、「サンプリング」という文化から見れば、一方的にコンテンツを流通させているだけで、その「二次利用」というものに道が開かれているとは言いがたい。素直に「もったいない」と思う。

例えば文学の場合、その「文脈」が重視されるが、サンプリングカルチャーはそれを正面から否定することになる。サンプリングカルチャーはその「素材」の背後にある「文脈」を引っぺがし、純粋な「素材」として、あるいは新たな「文脈」を付記して再提示するものだ。サンプリングカルチャーは、対象に付記されている「価値」をただ受容するのではなく、自らがその価値を再構成しようという主体的な試みである。その価値は大きい。

「サンプリング」に著作権が導入されたのは80年代後半〜90年代にかけてのことで、実はまだそこまで歴史が深くはない。当然、最初は揉めたり、あるいはサンプリングの使用料が高騰し過ぎて逆に使えなくなったり、色々な紆余曲折を経て現在に至るわけだけど(もちろん、現在でも明確なルールの統一ができているわけではない)、とにもかくにも音楽の世界では「サンプリング」は文化として認められ、そしてその収益を著作権者へ還元しようという一定のルールがあることは事実だ。もちろん、アンダーグラウンドではそんなものを無視する輩も多くて、逆に刺激的だったりするのだけれど。

例えば2chで流通しているコンテンツでも同じような形態のものは多いわけだし、しかもオリジナルにはない魅力を持っている。書籍においても同様の文化を認めて、コンテンツの二次利用に関するルールをもっと明確にすればいいのだと思う。

「サンプリングカルチャー」の最も面白いところは、既存の文脈を無視した「価値転倒」が頻繁に起こることだと思っていて、例えば大量生産のゴミみたいなレコードを使って、本当に奇跡みたいな音楽をつくることだってできることが素晴らしいと思う。「作品」は別に作者の意図した通りに受容する必要なんかないし、その価値も自分で勝手に改変してしまえばいい。

「中古レコード」は、そうした文化の出発点として立派に機能していると思うし、それは単純な「受容と供給」を満たす場以上の価値があると思うのだけれど、古書は、ただ「コンテンツの再販」という領域に閉じ込められいるだけでそれ以上の価値を与えることはできないんじゃないだろうか。「新しい文化」の創造は、「過去の文化」を見直す意味でも重要だと思うんだけれど。

まあ、単純に「音楽」と「文学」ではダイナミズムが違うと言われればその通りだし、古書にもそういう文化的側面が存在して、僕が知らないだけなのかもしれないけれど。