「子供」は、その存在からして「潜在的脅威」だって認めなよ。〜「大人」に教育が必要な本当の理由〜

教育改革は急務である、という話: H-Yamaguchi.net
教育を、もっと教育を! : 性・宗教・メディア・倫理

「大人に教育を!!」って視点にはもちろん賛成なんだけど、ちょっと腰が引けているような気がするので少しだけ。(ちなみに、現実的な政策論とかは考慮されてないのであしからず。)

「大人」に教育が必要なのは、「子供に手本を示す為」でも「家庭を再生させる為」でも、もちろん「『美しい国』を実現する為」でもないと思う。

本当は、「子供」という「外敵」から、自らの身(価値観)と社会を守る為に必要なんじゃないだろうか。

世の中には教育されていない子供を、「全く中身の無い空っぽ」として認識しているお馬鹿さんがいるみたいだけど、これは心底「子供」というものを見下した愚かな視点だろう。

「子供」は別に誰からか明確な教育を受けなくても、自ら世界を眺め、自分の状況を認識し、その選択肢の中で自分が「最適」だと思う選択をしている。その意思決定までの過程は誰かに教えられたものではない。自らが学び取るものだ。そういう意味では、「子供」の視点は(経済的状況は別にして)既に「自立」しているのではないだろうか。子供ならではのストレートな視点に驚かされたことがある人は少なくないと思う。

そうでなくとも、我々がかつて生きていた社会と、現在(あるいは未来に)子供が生きている社会は別物だと考えざるを得ず、「我々にとっての最適な選択」が「子供にとっての最適な選択」かという問いに対する明確な解はない。我々の「現在」を支えている既存の価値観は、常に新しい世代による懐疑の視点に晒されていると言っていい。そういう意味において、テロリストの例を出すまでもなく、「子供」は社会に変革をもたらし、最悪の場合、現在(あるいは将来)自分の占めている地位やそのバックボーンとなる価値観を転覆させるものとして、つまり既存の社会における「潜在的脅威」として認識されるべきなのだ。

だから、「大人を教育すること」の困難さと、「子供を教育すること」の困難さは同じなのではないだろうか。いやむしろ、既存のロジックとメリット/デメリットが理解できる大人の方が教育(懐柔)し易いと言えるのかもしれない。

「大人に教育を!!」という言説の本質は、「しっかりと自己防衛しましょう」ということなんじゃないかと僕は思う。新しい世代による懐疑の視点に対して、それを無視したり、一方的に「無価値」だと決めつけたりせず、受け止めた上で跳ね返し、あるいは一部を受け入れて、相手を懐柔できる柔軟なロジックとコミュニケーション能力、そしてそれを裏付ける経験を持つことが重要なのだ。

逆にそれができない大人、例えば子供を馬鹿みたいに見下したり、ロジックではなく暴力(肉体的特権)で相手を従わせたり、あるいはこんな風に子供の視点にすら耐えられないロジックを使うような大人は、愚かで醜いヘタレとして見下してやればいい。彼らのロジックに照らし合わせるなら、既存社会からの落伍者として排除してもいいくらいだ。こういう人間の言う「エリート」なんて言葉に一体何の価値があると言うのだろう。

10年後、「真のエリート」が生まれた時に真っ先に切り捨てられるのは一体誰か、彼らは本当に考えているのかな。あ、そうか。そういう自己防衛も含めて今から「愛国心」やらなにやらで予防線を張っているわけね。さすが、ヘタレなだけあって仕込みが細かい。でも、「真のエリート」ならその辺も難なく見抜くと思うよ。「エリート」なんて言葉とは程遠い僕でも見抜けたんだから。

今本当に「教育」で語られなければいけないのは、ここここで語られているような、ソフト/ハード問わず「現場をどう再生するか」ということなのは間違いがなく、恐らく10年後、「真のエリート」達が現在の議論を見たら心底馬鹿にするだろう。「こんな馬鹿に教育されてきたのか!!」ってね。

「子供をどう扱うか」ということは、「他者とどう向き合うか」という問題と切り離せない。現在の社会において「自立する」ということは、「自らが拠って立つものを決め、それをもって他者と向き合う」ということであると思う。決して「価値を共有する」ということが前提なのではない。そういう意味において、「愛国心」という自らの立脚点を子供という他者に強要しなければ成り立たない価値観(社会)に「自立」を語る資格などないのだ。そんな社会は、自立した「子供」に滅ぼされてしまえばいいと思う。


参照①:反自由党は卒業式での日の丸・君が代の強制を断固支持する(前篇)‐元登校拒否系
参照②:「もうセカンドハーフに入ってます」‐「君が代訴訟」に関するサヨクの皆さんへの重大なお知らせ ‐元登校拒否系


※ちょっと言葉足らずだったので追記。「教育」は「脅威」としての他者を懐柔し、「社会的財産」として活用する手段である、と。単純に「子供は脅威」じゃあ利用されるだけだね。