別に身体部位が「欠如」している必要はない。〜「人造人間」は「出来損ないの僕」を代弁するか〜

身体欠如少女の憂鬱〜サイボーグ化できない少女達〜 - たまごまごごはん
身体欠如と萌えと物語と妄想とデュラハン - WINDBIRD
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20061125/think0611252

この辺りを読みながら、ずっと考えていたことをそろそろまとめたい。

例えばティム・バートンの「シザーハンズ」に出てくるエドワード。彼は確かに「両手が鋏」という明確な「身体部位の欠如」状態にある。でも、僕が彼に惹かれる理由はそこじゃない。僕が彼に惹かれる理由は、「人造人間」である彼が「代替物としての鋏」をつけたまま、つまり「出来損ない」のまま生み出されたという点にある。

そして、彼の生みの親であるはずの博士は、彼の手を完成させる前にこの世を去った。そう、彼は永遠に「出来損ない」のまま、世界を彷徨わなければならないのだ。

更に、その背後にはティム・バートン本人の物語が存在する。エドワードは実はティム本人の姿で、手の代わりの鋏は彼の「コミュニケーション能力欠如」のメタファー。そしてあのストーリー自体彼が「変人」として、「アメリカ的価値感」から排除されてきた経験に由来する。

エドワードの「鋏の手」は、確かに明確な欠如として彼がコミュニティから排除される原因になる。だが同時に、その「鋏の手」こそが彼のアイデンティティであり、彼自身を代弁する武器にもなる。最終的に彼はコミュニティから排除される代わりに、自分の世界を手に入れ、「街に雪を降らす」という奇跡まで演出してみせる。

そう、この物語は「出来損ないの僕」の為の賛美歌なのだ。そして同時に、これは「失われてきたアメリカの可能性」の物語でもある。ある種の「アメリカ的価値観」を明確に否定し、そのオルタナティブを指し示す物語なのだ。

エドワードだけじゃない。「人工物としての生命」を大きな意味で「身体の欠如」と捉えるならば、例えば「鉄腕アトム」には、人間に近づこうとして「人間の心」を入れて貰った瞬間、「恐怖」という感情を得て以前のように人々を救えなくなってしまうという物語もある。人間を模してつくられたはずの彼が、「人間」になろうとした瞬間にアイデンティティを失うという物語。その物語は確かに僕の何かを代弁する。

純粋な「身体欠如」ではないが、僕はこのようなキャラクターに強く惹かれる。

SFに明るくはないので詳しく語れないのが残念なのだけれど、ある種の「人造人間もの」や「人工生命もの」にも同じような物語があるのかもしれない。

「身体欠如萌え」は僕にはよく分からないけれど、もし「萌え」というものがある属性や特徴の記号化と、それを契機にした物語の想起、妄想の快楽なのだとしたら、それは単純に「暴力」として切って捨てていいようなものなのだろうか。僕はその「妄想」「物語」の内容こそ気になる。

それは例えば上みたいに、僕(や他の誰か)の何かを代弁するものになるのかもしれない。いくら「フレームワーク化」といっても、そこにディティールのブレは生じるわけで(『細部にこそ本質は宿る』ではないが)、その部分こそ知りたいと思うのだけれど。

だから、「萌え」という行為そのものが問題なのではなく、その背後にある物語を語れない(らない)方が僕にとっては違和感がある。それを受け入れるかどうかは別にして。

そう、みんなでもっと「恥ずかしい妄想」を語ればいいんじゃないの?「これはキモイ」とかタグ付けられるのもしれないけど。