教育を崩壊させる「不信」の渦。

うわついた社会: 幸か不幸か専業主婦

システムとしての教育が機能しないなら、「教育」なんていっそのこと共同体の機能から切り離して個人対個人(親と子)の二者(三者)関係をベースにしたもの(マンツーマン!!)にしてしまえばいいのに。

例えばそれを受ける人間の属性はもちろん、そこに携わる人間の属性も踏まえた上で、それでもある程度均質化した(社会に適合した)人間を生み出すのが近代の教育(学校)の目的だったはず。その是非は別にして、「大人」とやらがちょっと浮ついたくらいでそれが機能しなくなるほど脆弱なシステムなのだろうか。

僕は教育の専門家ではないから、元々のシステムに欠陥があったのか、それとも「みんな大好きポストモダン」のせいなのか、詳しく語ることはできない。でも、もし「誰か」が浮ついただけで教育が崩壊してしまうなら、そんな脆弱なシステムをベースに社会を構築しようなんて、そっちの方がよっぽど危ないんじゃないかと思うのだけれど。

今の日本の大人が全体的に「うわついて」いる、と私は思う。親がうわついている、と思う。

夫や妻以外と恋したい、子育てより自己実現、孫の世話より自分探し、そしてそれを容認する社会。例えばそんなことだ。

本当は、「そういう社会」が欲しくて人間は今の社会をつくってきたんじゃないだろうかと思うのだけれど、一体いつからそんな社会は「敵」になってしまったのだろう。人間そのものの「欲求」自体が罪だというのだろうか。

子供を産んでも自分の選択肢を確保したい。孫が産まれても自分の楽しみは確保したい。

どうだろう?そんなに大それたことではないような気がするけれど。


個人的には、今何よりも必要なのは「信頼」だと思っている。

「親」に対する信頼。「子供」に対する信頼。「教師」に対する信頼。「他者」に対する信頼。「社会」に対する信頼。「システム」に対する信頼。

現在の状況を、単なる「不安のポピュリズム」なんて言うつもりはない。多分、もっともっと根は深いのだろう。ただ、これを誰かに強制しようとは思わないのだけれど、僕は今「不信」というものから距離を置こうとしている。

人間を壊すのも、システムを壊すのも実はこの「不信」が根底にあるんじゃないか。もちろん、「不信」は自分の身を守る大きな武器ではあるのだけれど、別に自分の身の回りのもの全てにぶつける必要はない。実は、「取り越し苦労」の方が遥かに多いのだ。

もちろん、「信頼」を確保する為には何らかの担保が必要なのは良く分かる。でも、担保はあくまで担保であって、「不信」そのものを払拭してくれるわけではない。

現在の状況は、人々の「不信」が渦を巻いて下降し、次々と人間やシステムを飲み込んでその価値を破壊しているように見える(信頼のデフレーション?)。教育はその最たる例ではないだろうか。「不信」をベースにした教育?悪い冗談だと思いたい。

もし大人が「浮ついている」なら、それは恋愛や自己実現に「浮ついている」のではないと思う。自分を取り巻く「不安」や「不信」に浮ついているのだ。

それを子供達は見ている。「不安」や「不信」にどう立ち向かうのか。それを見せてあげるべきではないのか。

「不信」をベースとする社会に育てられた子供は一体なにを学ぶのだろう。ちょっと想像ができない。

[追記]

ちょっと僕の子供時代の話をする。

僕が小学校に入る時、父親からしつこく言われたのが、「先生の言うことは絶対に聞け」だった。小学校時代の僕はそれを頑なに守った。中学校に入って、反抗期を迎えたころ、「先生なんてただの公務員じゃん」と初めて気が付いた。それ以来、僕は先生と「対等」(だと思い込んでいた)な立場で物事を考えるようになった。要するに「先生だって仕事なんだから黙った言うこと聞いとけばいい」くらいの嫌な子供になったわけだ。

でも、先生に対する信頼を無くしたかというとそういうわけではない。僕はきちんと「公務員の先生」を尊敬していたし、従属するでもなく、無闇に反抗するでもない、いい関係でいられたと思う。

でもってある日学校で小さな問題が起こって親全員が学校に集められた帰り、父親がこんな風に言った。

「だからあいつ(問題を起こしたクラスの担任)は駄目なんだよ。」

それを聞いて、僕は思わず笑ってしまった。あれだけ先生への絶対的な「信頼」を僕に課していた父が、実は教師をこれっぽっちも信用していなかったのだ(後に、「先生の〜」は誰かの本の受け売りだったことを明かした)。

でも、僕はこの点において父に感謝している。父は僕に「信頼」をベースにして人と向き合うことの重要さを教えてくれた。それが建前だったとしても、学校という「完全なる他者集団」を成立させるには、やはり「信頼」をベースにする以外は難しいのだ。