「我々は孤独だ」という想像的貧困が生む暴力

2007-01-24 - kom’s log
snjx.net - このウェブサイトは販売用です! -&nbspsnjx リソースおよび情報

これを読んで、最近の右傾化に関する謎が少し解けた気がした。(「人種」や「国籍」で人間をひとまとめにしてしまう短絡はちょっと横に置いてくとして。)

例えば今回のイラク戦争に関して、アメリカは当事者たるイラク国民以外にも多くのアラブ諸国イスラム教徒から憎悪の対象とされたわけだが、もし仮に日本がイラクと同じ状況に置かれたとして、同じようにアメリカを憎悪してくれる人々はどれだけいるのだろう?

これが不毛な想像だということは分かっている。だが、ちょっとだけ僕のお遊びに付き合って欲しい。

恐らく、今回のイラク戦争のような憎悪の渦を生むことを想像できた人は少ないのではないか。僕もそうだ。

イラクの事例のように、我々は国境を越えて共有されるような「宗教」は持ち合わせてはいない。また、EUのような緩やかな国家間の繋がりを形成しているわけでもない。

更に、アフリカの国々のように「民族」という集団が国境を越えて存在しているわけでもなく、中国のように世界各地に確固たるコミュニティを築いているわけでもない。

これは地政学的な問題でもあるのかもしれないし、ものすごく短絡的な思考ではあるのだが、こう考えてみると確かに僕らは「孤独」だと言えるのかもしれない。

これは最近思うことなのだけれど、日本の右傾化の背後には、この「孤独感」があるんじゃないだろうか。

つまり、上のイラクの事例の場合、イラクの人々がまだ幸福(というのは語弊があるかもしれないが)なのは、苦しみを味わった彼らと同じくらい苦しみ、悲しみ、怒って拳を振り上げてくれる同胞が存在していることだろう。物理的なサポートも含めて、それは何よりの支えになるはずだ。

翻って日本の場合はどうだろう。例えばイラクのようにならないとしても、いつか北朝鮮の核ミサイルが降ってきたとして、日本はどれだけの同情を得ることができるだろうか。北朝鮮はどれだけの憎悪を受けるのだろうか。表面上、それは与えて貰えるのかもしれない。拉致問題の被害者のように。でもそれでは何の慰めにもならないのだ。

多分、僕らが本当に恐れているのは、「国際的な地位を失うこと」でも「どこかの国に攻められること」でも「どこかの国に占領されること」でもない。何か大きな苦難に直面したとき、それに同情してくれる、それを助けてくれる同胞が存在しないこと。それが、僕らの不安の源泉ではないのか。

右傾化を推し進める人たちの言う「愛国心」や「美しい国」、あるいは「品格」という言葉。歴史の再認識などによるナショナリズムの勃興。そして嫌韓や嫌中など「日本を攻撃する人」への過剰反応。

これらは全て、虚勢であると同時に、「孤独」を背景にした「僕を忘れないで!!」という悲痛な叫びに見えてしまう。本当に美しい「日本的感性」の持ち主なら、わざわざ自分のことを「美しい」だの「品格」だのといった言葉を使って他者にアピールしたりはしないはずだ。

一部のネット右翼の代表的な行動も同じだろう。日本を攻撃したり非難したりする対象をその内容問わず徹底的に攻撃し、逆に日本に好意的な意見を述べる対象は多少の問題点があっても賛美する。

一方で戦力を持たぬなんて机上の空論にすぎない、お子様の理想論だ、実際のところ米国の武力で代用していたではないか、なんてマッチョな議論がさかんな昨今である*1。でもこの内側で吹き上がっているマッチョとは逆に、日常レベルでの私の経験に照らせば「戦争をしない」という日本のイメージは実に有効なのだ。

2007-01-24 - kom’s log

多くの人々は、そのようなことを体験する機会に巡り合わないからこそ、自身を「孤独」なのだと考えのではないか。そして「孤独」だから、自らを過剰に「強い者」だとして叫び続けないと気がすまないのではないか。

だが、その「叫び」に効果が無いことを彼らはよく知っている。だからこそ、これまでこの国を守ってきた(とされる)憲法九条をかなぐり捨ててまで、「我々の手で」この国を守らなければならないと息巻くのではないか。

だが本当に我々は「孤独」なのだろうか。もし「孤独」なのだとしたら、今の方法でそれは解消されるのだろうか。そして、我々の「孤独」は、一体何が生み出したものなのだろうか。

幻想かもしれない「孤独」に耐え切れず叫び狂う前に、もう一度それをじっくりと見つめ直してみる必要があるのと思うのだが。