「馬鹿でセンスの悪い奴ら」に擦り寄っているのは一体誰か。

http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20070404/p2

この問題の最も醜い部分は、一方で「自身と考えが異なる人々」を馬鹿にしながら、もう一方では「そういう人々」に必死で擦り寄っている所ではないかと思う。

本当に「彼ら」が「センスが悪く」「頭が悪い」のならば、そんな人間に語りかける言葉など最初から存在しないはずだ。この言葉は思考や言説の「理解」を促すものではなく、単に「断絶」を表すものだから。

これらの言葉は、ある種の「最後通牒」として(理解できる人には)機能する類の言葉だと思う。これを発して理解してもらえなければ、もう後はただただ深い「断絶」が存在するだけである。それを意識して使わなければならない。

だから、冷静に考えればそれ以上、「彼ら」に語りかけることなど無意味である。

それでも尚、「彼ら」に同様の言葉を投げかけるのは何故か。

それは多分、「彼ら」に語りかけている側の人間が、その「断絶」を認めたくないからだ。

本当に自分たちの言説・思考が正しく、「彼ら」が間違っているというなら、そして、それが「彼ら」に理解されず、仕方なく「断絶」の言葉を吐いたなら、もう後は実際の「行動」でその「正しさ」を指し示す以外に方法はないのだと思う。

しかし、それでも尚、繰り返し繰り返し「断絶の言葉」を「彼ら」に向け続けるのは、一方で「彼ら」に対する優越感を自身が必要とするからであり、もう一方では「彼ら」への未練を捨て切れないからである。要は「彼らの承認」が死ぬほど欲しいのだ。だからこそ、何度も橋を掛けては自ら叩き落とし、また掛けては叩き落とすことを繰り返しているのである。

こう考えてみると、「彼ら」に最も依存しているのは、その断絶の言葉を吐き続けている批判者本人なのだということが良く分かる。

しかし、「彼ら」を否定する人々は決して「彼らの側」に渡ってみようとはしない。橋が掛ったままであるならば、本来はその往復も難しい作業ではないはずなのに、「あちら側」に渡る素振りは一切見せないまま、ただ一方的に「こちらに来い」と言うだけである。

そして、それに少しでも異を唱えたり懐疑の視線を加えると、途端にその橋は叩き落とされるのだ。一方的に。しかし、しばらくするとまた橋を掛け始める。だったら最初か掛けっ放しにして、好きな時に行き来できるようにしておけばいいのだが、なぜかそうはしない。

本当に自分たちが正しく、そして変化を望むならば、安易な断絶は行うべきではない。様々な領域を自由に行き来しながら、柔軟に思考と言説を繰り出すことこそ、「運動」の本質であるはずだからだ(自戒含む)。

そして、一度断絶の言葉を吐いたなら、それは自身の言動でもってその正当性を証明する以外に「彼ら」を納得させる方法はない。その言葉を吐くならば、それだけの覚悟をするべきだろう。