「デモをやる元気があるならその分努力しろ!!」
http://www.asahi.com/life/update/0501/TKY200705010001.html
〔動画〕「生きさせろ」東京と大阪でフリーターや派遣労働者がメーデー: 低気温のエクスタシー(故宮)
http://self-consciousness.g.hatena.ne.jp/kusamisusa/20070430/p1
2007年05月01日 matukiti_no 格差社会, 労働問題, デモ 若者中心か・・・。自分で選んだ道(仕事)だろうが。こんなことやってる暇があったら、一生懸命勉強して、なんか手に職(資格)付けてろよ。
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多分こういう意見が出るのって、「彼ら」が異様に元気そうに見えるからなんだろうね。単に「デモ」だけで実態を見ようとするからそうなるんだろうけど。
ちょっと前に雨宮処凛さんの「生きさせろ!」の読書会に参加して、色々と気がついたことがある。
参加者は最終的に20名弱くらいになって、その中には『「丸山眞男」をひっぱたきたい』の赤木さんやid:nisemono_sanさん、それから高円寺「素人の乱」界隈の人もいたんだけど、半分くらいはごく普通のフリーターや派遣社員などの非正規雇用で働く人たちだった。
でね。僕やid:nisemono_sanや運動界隈の人達があーだこーだやり合ってる脇で彼らは言葉もなく所在なさげにちょこんと座ってるわけだ。
もちろん、彼らに気を配らずに自分の好き勝手に話を続けた僕ら(というか、あの場では僕)が全面的に悪い。雨宮さんに聞いて欲しい話もあっただろし、非常に申し訳ない気持ちでいっぱいなんだけれど、それと同時に「デモ」というある種の表現行動に関しても実は同じことが起こってるんじゃないか、と思うようになった。
もし今回のデモの様子でもって「プレカリアート」のパブリックイメージが決定されてしまうのだとしたら、それは「プレカリアート」の実態を相当歪めてしまうことになるんじゃないだろうか。
そういうものの見方が短絡的であるという批判はできるだろう。また、あの表現手法自体がある種の思想に基づいているということも十分理解している。
それでも。それでも僕は、「そこから零れ落ちる人たち」がどうしても気になる。
タイトル、あるいはmatukiti_noさんの言い分は、路上に出て大騒ぎできる「プレカリアート」に対しては(それを受け入れるか入れないかは別にして)正論なのかもしれない。
でも、絶対に忘れて欲しくないのが、ああやって路上に出て大騒ぎしている「プレカリアート」の何倍、何十倍という数の「名乗らない人々」がいるということだ。
そして彼らは、路上に出るわけでもなく、声を挙げるわけでもなく、請負会社から与えられた狭い部屋で、ネットカフェの個室で、深夜のマックで、バラバラに分断されて孤独と不安に苛まれている。
僕は、確かにこれが一部の人には単なる悪ふざけにしか見えないのも理解しているし、それを踏まえたうえの行為であることは自明だと思っている。
また、もし「名乗らない人々」の存在や切迫感を伝えられなかったとしたら、それは主催者や参加者の力不足、知恵不足であり、あるいは「デモ」という手法の限界という、それだけの話なのかもしれない。
ただ、何となく、「悪ふざけ」に夢中になり過ぎてはいけないだろうな、と思う。多くの人が感じている違和感もそこにあるんじゃないだろうか。
「楽しいこと」に夢中になるのはいい。でも、「今なぜ悪ふざけが必要なのか」ということと、「いったい誰を巻き込み、笑わせたいのか」ということは絶対に忘れてはいけないと思う。
僕らは単に「悪ふざけ」がしたいだけではないのだから。
そして、「デモを眺める側」の人達にもお願をしたい。
もしできるならば、ほんの少し想像力を働かせて、あの「悪ふざけ」には理由があり、そしてその背後には、物言わぬ人達の列が連なっていることを考えて欲しい。
「路上に出ない(出れない)人々」の方が、圧倒的に多い。だから、「悪ふざけ」という表層でもって、「プレカリアート」という問題が流されてしまうことがないことを切に願う。
大騒ぎするデモ隊の後方で、そんなことを考えながら歩いた。