「グラフィティ・アート」と「ストリートパフォーマンス」〜「リーガルとイリーガル」の狭間〜

「想像力の欠如した」路上パフォーマーが、秋葉原の歩行者天国を危機に晒す - シロクマの屑籠
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20070831/1188512682
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070831#p4


id:NaokiTakahashさんが指摘しているとおり、この問題を「アキバ特有のもの」として設定すると、多分本質を見失うと思う。都市の状況によって個々差異はあるだろうが、ストリートの表現において、「リーガルとイリーガル」という問題は常に前提とされてきた事柄ではあるし、また「ストリートで表現すること」は、その「リーガルとイリーガル」の狭間で行われる行為であることは明白だからだ(「意識的な人にとっては」だが)。

もちろん、今回問題視されているような「路上での過剰露出」が厳密に「表現」と言えるかは悩むところだけれど、まあ「エンターテイメント」としては十分容認できる範囲だろう、とは思う(それがあそこで行われることの是非は別にして)。個人的には、もし金も払う必要もなく、生でかわいい(?)女の子のあんな姿やこんな姿が見られるなら、わざわざそれを止める理由はない。また、ポルノの領域でさえ、「リーガルとイリーガル」を巡る綱引き(表現規制等の問題)が常に行われていることを考えれば、「ポルノ」だからといってそれを路上から排除することには、いまいち正当性が感じられない。

「リーガルとイリーガル」を巡っては、「グラフィティ・アート」をサンプルとして見ると、比較的問題が俯瞰しやすくなると思う(ポルノの問題は別だけど)。

グラフィティの歴史 history of graffiti web餓鬼の眼

まずもって、建物や公共の乗り物に「描く」という行為自体が既に「イリーガル」な試みであるわけだが、同時に「イリーガルだからこそ」ここまでの発展と拡散をみた、ということが言えると思う。

「グラフィティ・アート」は単なる落書きではなく、「芸術」を既存の枠組みから解放する試みであり、また「街」の実権を権力と資本から奪還する為の活動であるとされる。その為には、「リーガルの領域」を逸脱し、「イリーガルの領域」へと踏み込んで自らの表現を行う必要があった。

結果、度重なる厳罰化とジュリアーニによる「浄化作戦」、そして9.11後の「監視強化」により、誕生の地であるNYの「グラフィティ・アート」自体はほぼ壊滅(それでも個別に抵抗を続ける素晴しいグラフィティ・アーティストもいるそうだ)するが、しかし彼らの与えた影響は世界中に広がり、地域や文化、社会階層を越えた「芸術」として広く認知されることとなる。

少し前の話になるが、WEBとグラフィティを繋ぐ『グラフィディア』という試みも登場していることや、「グラフィティ・アート」の手法やディティールが氾濫している状況から考えても、「文化」としてはむしろ発展していると考えるべきだろう。

もちろん、「リーガルの領域」でこの「グラフィティ・アート」を存続させようという試みも存在している。公共機関や持ち主の認可を受けた壁や建物は「リーガルウォール」と呼ばれ、そこでは誰にも邪魔されることなく自分の好きな「グラフィティ」を描くことができる。その「リーガルウォール」の設置を積極的に進める団体も存在する(参照)。渋谷なんかだと、いろいろな所でこの「リーガルウォール」を見ることができる。

同時に、その「リーガルである」という部分を指して、「グラフィティ・アートの魅力を削ぐ行為だ」と考える人も多い。上に示した通り、「グラフィティ・アート」は「イリーガルな領域」に進出しても尚、自らの表現を貫くことに価値があり、あらかじめ権力に庇護された環境で行われる表現は「グラフィティ・アート」の本質を損ねる、というのが批判する人の論理だ。

どちらにも正当性はあるし、また正解はないと思う。ただ、この「グラフィティ・アート」の例にしろ、またストリートパフォーマンスの例にしろ、単に「リーガルの領域」にいたいだけなら、わざわざストリートに出てくる必要はないだろうと思う。

「ストリート」は表現の為に設定された場ではない。「ストリート」は、様々な目的を持った人(あるいは持たない人)が混在する場であり、「ある人たち」にとっては、そこで表現すること自体が「逸脱」として捉えられることを前提として考えなければならない。これは「ストリート云々」以前の、「表現者」として当然求められるべき要素であるように思う。そして、その前提を乗り越えるからこそ「ストリートパフォーマンス」に価値が生まれるのではないだろうか。

その緊張感をなくし、「ストリート」をさも「自身のプライベートスペース」であるかのように(無自覚に)振舞い、またそれが広く受け入れられる状況は、「ストリートの表現の死」を意味するのだと僕は思う。

僕が本当に問題だと思うのは、ストリートの表現が「公序良俗に反すること」でも「警察によって潰されること」でもない。その「表現への無自覚さ」と、それに伴う「表現の死」こそが最大の問題なんだと考える。

割れ窓理論」になぞらえて言えば、ストリートパフォーマンスにおいて、最も致命的なのは「窓を割ること」ではない。「そのつもりがないのに割ってしまうこと」、あるいは「割ったことに気がつかないこと」こそが、最悪の行為である。

多くのグラフィティ・アーティストたちはそのことに自覚的だった。自分が「どこの窓を割ろうとしているのか」、あるいは「なぜ割ろうとしているのか」、そして「割ったらどうなるのか」ということに関して、全て認識した上で「イリーガルの領域」へ飛び込んでいったのだ。だからこそ、彼らは「イリーガルの領域」にあっても尚、多くの人に支持された。

では、今、秋葉原歩行者天国で「パフォーマンス」をしている人たち、特にイリーガルぎりぎりの表現をしている人たちは、どこまでそれを考えているのだろうか。残念ながら、それを判断するには僕はアキバのパフォーマーのことを知らな過ぎるのだけど。

もし仮に、何も考えていなかったとしても、それはそれで構わない。そういう表現があること、またそれを求める人がいることは事実だし、それが全く無価値だとも思わない。

だが、「そんなもの」を僕は面白いとは思わないし、それが潰されるのを止めることもしないだろう。世の中にはもっと面白い人、面白い表現がたくさんあるのだから。「アキバのストリート文化」がその程度であるなら、僕はとっとと潰れてしまって構わないと思う。

しかし、もしそこになにがしかの「イリーガルへの意識」が介在するのであれば、僕はその表現を面白いと思うし、(できるかできないかは別にして)それが警察によって潰されるのを阻止するだろう。

もちろん、自由に表現できる場はたくさんあった方がいい。でも、だからと言って、無自覚に垂れ流すだけの表現を面白がるほど暇じゃない。他にも擁護されるべき表現は無数に存在する。

アキバでストリートパフォーマンスをする人に求められるのは、「良識への配慮」でも「警察への配慮」でもなく、まずもって、「何故ストリートなのか」「なぜアキバなのか」という問い立てを自らに課すことではないかと思う。