教師・医師・介護福祉士の問題を、「労働問題」として一度整理する必要があるのではないか。

http://www.asahi.com/national/update/1009/TKY200710080324.html
教師を育てようとしない - 今日行く審議会@はてな
http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071009/1191947176
http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071010/1192003209

これは間違いなく「労働問題」として扱われるべき事案であるように思う。公立/私立問わず「教師」もいち労働者であることを全ての人間が再認識するべきだろう。

この問題を「一部の非常識な子供/親(モンスターペアレント)の問題)」という形で短小化するべきではない。それは、この問題の一側面に過ぎない。

今回の問題を一般企業に例えるならば、『事前教育もまたサポート体制も不十分なままの新入社員に、いきなり(厄介な)クライアントを担当させ、その他の付帯業務も担わせたまま、業務の進捗管理や業務量の適正さの査定などを全く行わなかった結果、その新入社員がクライアントとのトラブルを苦に自殺した。』というものだ。ここで責任を問われるべきは一体誰なのだろうか。

もちろん理不尽な要求をし、トラブルの引き金となったクライアント(親)の責任は問われて然るべきだろうが、同時に、そのような状況に社員(教師)を追いやった雇用主(学校)の対応にも大きな問題がある。雇用主には社員を守る義務もあるからだ。

企業において、人事を担当する者には、人材の評価と教育、そして適正な配置を行うことが求められる。そして部下を管理する立場にいる者(上司)には、部下の業務量や業務内容、個々のクライアントとの関係を把握し、必要な助言などを行い、もし状況が悪ければサポートを付けたり配置変えを行うなどして社員/クライアント双方に被害が及ばないような対応をすることが求められる。

今回の件で、この任を負うべきなのは(最終的には)校長になるだろうが、このケースではその責任を全く果たせなかったと判断されても仕方がない。また、今回は「自殺」という最悪の結末を迎えてしまったわけだけど、そうでなくても鬱病などが原因で辞めなければならないケースや、そこに至る前に退職するケースは枚挙にいとまがない。

しかし、問題のある親や子供を責めても根本的な解決にはならないのと同様に、教師本人や校長、学校を個別に責めても問題は解決しないだろう。この問題は「聖職」という名の基に覆い隠されてきた(あるいは、当事者以外誰も見ようとしなかった)構造的な欠陥を原因とするものだからだ。

日教組によるあれこれはちょっとイデオロギーに偏り過ぎているきらいがあるし、別の意味で「職場環境」を圧迫していた事実から考えても、構造的な問題解決の担い手にはならないと考える。)

この状況に関して、行政は、教育関係の予算を削減する一方で、「生徒/親による評価制度」や「教員免許の更新制」など更なる教師への締め付けを強化する方向で対策を検討しているように見えるが、今の状況でそれが逆効果なのは明らかだ。

今、何よりも必要なのは、教師が余裕を持って生徒/親に向かうことができる職場環境を用意することなのだと思う。

もちろん、ある程度の管理や締め付けは必要だ。問題のある教師がいる(多い)ことも事実だろう。しかし、まるで営業会社のようにノルマに追われ、誰からのサポートを受けるわけでもなく孤立したまま教育を行う教師に、自分の子供を預けたいと思うだろうか。僕の答えはNOだ。予備校ならそういう教師もアリだろうが、公教育が担うべき「教育」はそのような環境で担われるべきものではないと思う。

「教育」は、単なる「画一化」を意味するわけではなく、また「知識/ノウハウの詰め込み」を意味するものでもない。もっともっと複雑で難しいものだ。しかし、「学校」という現場において、それぞれの教師が子供に相対する以外に方法はない。親やその他の人間はその支援者でしかない。

もちろん、「学校」の中に親やコミュニティの人間が介入していくことも必要だろうし、また「学校」以外の教育の機会を設けることも必要だろう。だがしかし、今すぐに「学校」そして「教師」が「教育」の中心から外れるわけではない。

だからこそ、その中心にいる教師が、自らの能力を発揮できる環境を整えることこそ、「教育」において最も早急に実現されなければならない課題であるように思う。


そして、上の課題は「教育」という領域に限定されるものではない。現在、「教育」と同じく「医療」、あるいは「介護」といった領域においても、同様の問題が立ち上がっているように思う。

人材不足による激務と患者側の不信や過度な要求による「訴訟」というリスクに悩まされる「医師」。行政の失敗による経済状況の悪化と将来の展望の無さに悩まされる「介護福祉士」。「教師」と同じく、「公サービス」を提供する側の彼らは多くの問題を抱えている。

しかし、それぞれの問題は「聖職」というパブリックイメージに覆い隠され、あるいはその職務の特殊性から、これまで真剣に検討される機会が少なかったのではないだろうか。欠陥を抱えたままのシステムが、当事者の使命感と努力によって何とか保たれているという現状であるにも関わらず。多分、多くの人がそれに慣れ過ぎてしまったのだろう。

しかし、現在の状況はそれでは持たないところまで来ているように思う。それぞれの現場から挙がる当事者の悲鳴は、状況がひっ迫していることを如実に物語っている。

これらの問題を、「教育」「医療」「介護」といったそれぞれの領域だけで解決しようと思っても難しいだろう。そこには「聖職」あるいは「公サービス」といったものに対する受け手の安直なイメージが必ず付いて回るからだ。

だから、それぞれの領域を超えて、教師・医師・介護福祉士が抱える問題を「労働問題」という大枠で捉え直し、「公サービス」に関して、「提供される側」ではなく「提供する側」の環境をどう整えるのか、ということをもう一度原点から考える必要があるのだと思う。

もちろん、それだけで問題は解決するわけではないが、どのような「公サービス」であっても、最終的には人の手によって担われるものであり、その「担い手」の環境の悪化が提供されるサービスの質の悪化に直結することは明らかだ。ならば、彼らを「労働者」として再定義し、労働環境をもう一度整理し、そして彼らが安心してサービスの提供が行える職場環境を整えることこそ、問題解決の出発点として欠かすことができない視点なのではないだろうか。

ただ、残念ながら、上の教育問題に関する記述があくまで一般論でしかないように、それぞれの領域の問題を語るべき専門知識を僕は持ち合わせていない。だから、それぞれの専門家が、それぞれの専門領域を超えて、上の問題意識を共有してもらいたいと思う。結局他力本願になってしまい非常に情けないけれど。

そして、最後になるが、このような状況であってもそれぞれの現場で必至に踏みとどまっている人たちには心から感謝する。彼らの努力が徒労とならないことを切に願うばかりだ。