「かわいそう」と言った学生の欺瞞

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あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系
「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か - 過ぎ去ろうとしない過去

個人的には、「かわいそう」と言った学生側の欺瞞(というかこの時点は無自覚さかな)を一切問うていない部分で、toledさんとhokusyuさんの批判もフェアじゃないなと思う。

三宅秀道さんは、その特定の位置を自由に選択しています。ところがトリアージというなじみのないカタカナ語を振りかざすことによって、あたかもそれが政治的な選択ではなく、万能のプロセスの自動的な適用であるかのように振る舞っているのです。これを自己欺瞞と言います。

 学生たちは、その自己欺瞞を批判しました。それを三宅さんは、「感情的」であると決めつけて否定します。他人が「感情的」だといって騒ぐとしたら、その人自身が感情的である第一の症状です。三宅さんの文章にはいらだちがあふれています。他者の感情の被害者を装うことによって、自分の感情にだけは正当性があるように振る舞うゴマカシがここにあります。

あのー、それ、普通にかわいそうなんですがーー「トリアージ」という自己欺瞞 - (元)登校拒否系

「かわいそう」の一言は、その全体主義にたいする、プリミティブな異議申し立てに他なりません。いわば、「王様は裸だ」と叫ぶ無邪気な子供のようです。たくさんの兵隊を連れて行進する王様にたいして、片やもう一方の経営学者様は彼女の単位を左右します。童話の王様は恥ずかしくなって逃げ出しますが、現代の王様は一味違います。「バカだなあ。王様が裸なんて当たり前じゃないか」と自らの裸を誇示するのです。

「かわいそうなぞう」はなぜ「かわいそう」か - 過ぎ去ろうとしない過去

確かに「トリアージ」はある種の例外状況/特殊状況にのみ適応される概念ではあるけれど、しかし「トリアージ」の問題が「全体から見た効率の恣意性/暴力性」という点であることを考えれば、今現在我々が置かれている社会状況はまさに「トリアージ」を日常的に行っている社会である、ということに気がつくはずです。

そこで「トリアージ」という概念に対して「かわいそう」という個人的な感情を吐露した学生に向けるべきは、「それは感情的である」という切捨てでも「プリミティブな異議申し立て」という評価でもなく、『「かわいそう」と言っている貴方は何処に、何の(誰の)上に立っているのか。』という問い立てではないでしょうか。

「かわいそう」という感情の吐露を「プリミティブな異議申し立て」にできるのは、その社会によって一切の利益を得ていない完全な外部者のみです。「全体から見た効率の恣意性/暴力性」を是とする社会の成員である以上、「かわいそう」という感情の吐露は、単に自身が切り捨ててきた/いくもの、その対象と構造に対する無知と無自覚さの発露以外の何者でもなく、(小学生ならともかく大学生レベルならば)正面から批判されて然るべきではないかと思います。

ということで、fuku33先生への批判がメインであるとはいえ、上記のような学生の欺瞞が問われないのはやはりフェアではないし、正直「いつもの二人らしくないな」と思います。

的外れでしたらご批判を。