「観客になる」のは「非日常」から自己を守るための儀式みたいなものでは。
当事者じゃなくなればとたんに観客になる人々ってなんだかなあ - novtan別館
このエントリの趣旨は理解するけれども、ただこうまで単純に切り捨てることはできないんじゃないのかな、とも思う。
今日のような突発的に発生した事件や事故に巻き込まれた人達は、普段、自分が「当事者」になることなど微塵も考えていない人達だろう。
そのような人達にとって、「現場の動画や写真を撮ること=観客になること」は、突然自分を襲った「非日常」から自己を守り、普段自分達がいる「日常」に戻るために必要な儀式みたいなものじゃないかと思う。
これは写真を撮っていた人達だけではなく、電話やメールで友人に状況を伝えたり、あるいは、
革命的非モテ同盟跡地
秋葉原通り魔事件 現場に居合わせた者の主観的記録 : 筆不精者の雑彙
このように「ブログエントリ」という形で自分が出くわした「非日常」をまとめている人達にも言えることじゃないだろうか。
僕は「観客化」という手段を通じて「非日常」を消化しようとする人達を責めるべきじゃないと思う。なぜなら、今日秋葉原で起こったような事件は「ディスプレイの中の出来事」である、というのが僕を含む一般人にとっての「日常」のあるべき姿だから。
確かにそれは卑怯な姿勢なのかもしれない。「非日常」をディスプレイの中に追いやったところで、それが世界から消えるわけじゃないのは確かだ。今日の秋葉原のように、「非日常」が唐突に襲いかかってくることもある。
ただ、余程訓練した人でないとそうした「非日常」を消化するのに時間がかかってしまうし、そのような人たちが「言わなくてもいいこと」や「やらなくてもいいこと」に手を出さざるを得ないのもまた事実ではないだろうか。
だから、今日、不意に「非日常」に出くわした人達の行為と、ある覚悟を持って「非日常」の真っ只中に突っ込んでいこうとする「ジャーナリスト」の行為を同列に並べるべきではないと思う。表層に立ち現れる行為は同じだとしても、その背景や目的は全く違うし、仮に「メディア」を持つことが容易になったとはいえ、プロである「ジャーナリスト」と同列の覚悟を万人が持つことなど不可能だろう。
もしそれを問うならば、
http://recently.sakura.ne.jp/wp/?p=41
http://pastorale.jpn.org/2008-06-08-1.html
このようにwebを「新しいメディア」として捉えて情報発信しようとする人達にこそ問うべきだと思う。
NOV1975さんが懸念するような行為は、確かに倫理的に見れば容認されるべきものではないのかもしれない。しかし、「観客化」という手段使って「日常」に戻ろうとする人達は、ある意味で非常に「理性的」であり、そうした行為もまた社会を円滑に運営するために必要なのではないか、と思う。
余談だが、9.11の直後、少なくない数のニューヨーカーが普段通り食事に出たりショッピングに出かけたりしたそうだ。「テロ」という恐ろしい「非日常」から自分達の「日常」を守るために、あえて普段と同じ生活をすることを選択したらしい。
同じように、秋葉原でも今まで通り「歩行者天国」が実施され、馬鹿なパフォーマーが警官に怒られたりする下らない光景が見られればいいな、と思う。