『労働しない(と思われている)人嫌い』ってそんなに理不尽なのかな?

まあ、皆ほんとに労働しない(と思われている)人嫌いだよね - 猿゛虎゛日記(ざるどらにっき)

ブクマコメにも書いたのですが、これに関してまず参照すべきなのは、池田信夫評論家としても有名(?)なhamachan先生による『福祉と労働』を巡る一連のエントリでしょう。

労働中心ではない連帯?: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
ナショナリティにも労働にも立脚しない普遍的な福祉なんてあるのか: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
移民と生活保護: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
※他にも参照すべきエントリが山ほどあるんですが、ここでは直接的なものだけ。

特に、

「共に働いて社会に参加している(いた)(いくであろう)」という契機を失った「市民性」っていったい何なの?働いている側が、それを対等な市民として認める保証はどこにあるの?「俺たちに寄食するどうしようもない連中」との間に、どういう連帯感情があり得るのか。ハーバーマスの本の上ではなく、現実の社会の中で示して貰わなければ。

労働中心ではない連帯?: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

この箇所は重要な問題として掘り下げて考える必要があると思います。

zarudoraさんのエントリにはまだ続きがあるということですのでまだ結論は提示されていないものと思いますが、現時点ではやはりhamachan先生による実務的な視座を重視したい、と個人的には考えます。

労働に関する価値転倒が起こったのが近代であるとはいえ、その「転倒した労働感」をベースに構築されているのが現代の社会であり、またその多大なる恩恵を我々が受けているのは事実です。

それは単なる物質的な豊かさだけでなく、高度にシステム化された福祉社会や充実した医療制度という生存に関わる重大な部分を保障しているのも、やはり近代以降アップデートされた「労働」という価値観なのだと思います。そのような部分から、「労働」において我々が支払ったコスト以上のものを受け取っている(受け取れる)のではないかと考えます(今のままで十分かどうかは別にして)。

ですから、「労働」というものの価値転倒の歴史がどうあれ、現代社会において「労働」にある種の社会性を生む役割を与える考え方はそれほど筋が悪いとは思いません。

もちろん、どこまでを「労働」と呼ぶのか(例えば現在お遍路中らしい似非原さんは、『mixiに日記を書いている俺達は企業価値を創造しているのだから立派な労働者だ!mixiはユーザーに賃金を支払え!』とか言ってました)はまた別に考える必要があるかと思いますけれど。

もしできるなら、続いて書かれるであろうzarudoraさんのエントリが、この辺りの視座を含んでいるものだといいなー、と思ってます。

すみません、僕も立派な「労働者」ですので、明日も仕事が待っています。まだ書き足りない部分もありますが、この辺で「労働」に備えてお休みすることに致します。

では。皆さん明日も良い労働を。