村上春樹とエリア・スレイマン


一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ。

http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html

想像力だ。あなたが捕虜を捕らえたとして、捕虜が三メートル四方の獄に入れられる。それでも捕虜の人間は想像力によって自由になれる。イスラエル占領軍にはこれが決して分からない。人々を殺し続け、記憶を抹殺しようとするだけだ。この映画の物語は二つのシンボルを中心に構成している。壁を超えようとする愛と、何でも封鎖する検問所。愛はどんな壁でも通過していくパワーだからね。

[all cinemas go forward to freedom!] D.I. -- online KONGE JIHO

村上春樹エルサレム賞受賞スピーチにエリア・スレイマン『D.I.』の主題を連想したのでメモがてら。

エリア・スレイマンはナザレ出身のアラブ系イスラエル人(この表現はあまり的確ではないかもしれない)。『D.I.』は彼の長編二作目で、パレスチナ映画(正確にはパレスチナとフランスの合作)として初めてカンヌ映画祭に正式出展され、国際映画批評家賞の最優秀作品賞とコンペ部門の審査員賞をダブル受賞したコメディ映画。

レイマンはこの『D.I.』で、「美女が歩くと男は皆釘付けになる」などの荒唐無稽な“ハリウッド的お約束”を好き勝手に盗用し、イスラエル占領下のナザレやパレスチナを巡る現実を笑いに転化してみせる。映画では美女が歩いただけで検問所は崩壊し、アプリコットの種は戦車を爆発させ、革命戦士は“インティファーダ流忍術”でイスラエル兵の弾丸をはじき返すことができる。実際、パレスチナの観客はそれらのシーンを喝采の声でもって迎えたそうだ。

しかし、その“お約束”の荒唐無稽さはかえってパレスチナを巡る現実の深刻さを浮き彫りにさせる。現実は映画とは全く逆で、検問所は強化され、戦車はキャンプを蹂躙し、イスラエル兵の弾丸は女子供も容赦なく撃ち抜いていく。作中でも上記のシーンが主人公(スレイマン自身)の妄想に過ぎないことが暗示されている。

これは二重の意味で「想像力の敗北」なのだと僕は思う。

ひとつは「想像力」だけでは現実を直接変えることができない、という意味において。もうひとつは、被抑圧者であるパレスチナの人々にとってですら、アメリカの文化的抑圧の最たる例である「ハリウッド的想像力」の甘美さを拒否することができない、という意味において。それが自分たちを「世界」から切り離し、現在の状況に押し込めている元凶であるにも関わらず。

レイマンエドワード・サイードの死に関してこのような文章を寄せている。

イードは映画というものにあまり興味がなかった。彼には、あまりに大衆的な芸術でありすぎた。それほどよくあることではなかったが、彼はパレスチナ大義を推進するとされる映画を観たときには、みずから積極的にその映画を売り込んだ。だが愛はときに盲目となることがあり、パレスチナについても同じことが言えた。


[中略]


イードの情熱は正義に注がれており、彼は今すぐにそれを要求した。映画には愛することができるし、一目ぼれも多い。けれども正義というのは、映画におさめることができないものだ。それはいつもフレームの外にある。


映画は不向きでもある。時間の価値の切り下げや空間の縮小についていくことができないためだ。映画の勃興を招いた産業革命そのものが、両者を破壊しているのだ。カメラは戦争の道具として生まれたが、革命家が意図したような方法で銃として用いられることはなかった。詩的な抵抗、前進しても輪を描くだけで、「現在」とは同調しておらず、即時性はない。映画が「わたしたち」とともにあるという信念は動かないが、それは長い目で見ればのはなしだ。


僕だって、いらだちを感じることは多い。期待は裏切られ、信念は失われる。

http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/J/Obituary-suleiman.htm

このスレイマンの苛立ちや諦念と同じものを、村上春樹も抱えていることだろう。スピーチ中、彼が繰り返した「嘘と真実」というメタファーに、そして何よりも彼自身が今回の授賞式に出席した理由にそれを見出すことができる。

しかし、それでも彼らはこう宣言する。

セックスをするように映画を撮る。テクニックを語るのではなく、瞬間をより濃密に生きることを追求する。本作は私的な映像で、自分と自分の感情について語っているのだから、つまらないと言われてもそんなことは気にしない。映画を作るのは、より良いポテンシャルの現実を作る為。障壁を打ち壊す為、障壁を増やさない為。権力を握る構造が押し付ける、あらゆる定めや規則から自由になる為なんだ。

[all cinemas go forward to freedom!] D.I. -- online KONGE JIHO

僕が小説を書くさい、たったひとつの目的しか持っていません。それは個々人のかけがえのない神性*4を引き出すことです。その個性を満足させるために、そして僕たちが「システム」に巻き込まれることを防ぐために。だからこそ僕は、人々に微笑みと涙を与えるべく、人生と愛の物語を書きつづります。

http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090216/1234786976

レイマンは自身の映画を「DIVINE INTERVENTI0N」(「神の手」「神の仲裁」)と名付けた。村上春樹は「the unique divinity of the individual」(上記*4)を引き出すことが小説を書く目的だと言った。

これが「文学」や「映画」の最後の拠り所だ。「文学」や「映画」にできるのは、ほんのちょっとだけ、個人の感情を揺さぶることくらいのものだ。

多分、僕らは「文学」や「映画」に(あるいは「アーティスト」という存在に)依存し過ぎている。だから好き勝手に過大な幻想を押し付け、期待し、裏切られては作者自身はおろか彼らの「作品」までを否定しようとする(その逆もまた然り)。

僕らひとりひとりの現実への影響力に比べれば、「文学」や「映画」自体のそれは限りなく小さい。この不幸な依存関係を、いつまでも続けるわけにはいかないだろう。何故ならそれは、僕ら自身の死と「文学」や「映画」の死、その両者を手繰り寄せるものだから。


最後に、この『D.I.』は世界中で絶賛され、カンヌをはじめ数々の映画賞を受賞したにも関わらず、ノミネート確実と目されていたアカデミー賞外国語映画賞からは「パレスチナという国家は存在しない」という作品とは一切関係ない“政治的な理由”で候補から除外されたことを付け加えておく。

【『D.I.』映画紹介、レビュー等】
di
[all cinemas go forward to freedom!] D.I. -- online KONGE JIHO
映画の誘惑-D.I.
http://www.k2.dion.ne.jp/~rur55/films/DivineIntervention.htm


村上春樹イスラエル賞受賞スピーチ概要】
http://www.asahi.com/culture/update/0216/TKY200902160022.html
http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2009021601000180_Detail.html
http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20090216/1234786976

D.I. [DVD]

D.I. [DVD]

パレスチナ・ナウ―戦争・映画・人間

パレスチナ・ナウ―戦争・映画・人間