音楽を録音すること:それは善か悪か?

音源の無料化を推進する言説とセットで「そもそも音楽はアーティストがライブで演奏していたもので、レコードやCDに収められた音源はその代用品に過ぎない」というようなことを言う人達がいます。

レコードやCDのようなパッケージメディアが既に時代遅れになっているのはその通りだと思います。デジタルデータでやり取りした方が効率的ですしね。でもって、パッケージメディアと比較した場合デジタルデータの流通や複製に必要なコストは格段に下がりますから、(無料化が成立するかどうかは別にして)レコード会社が考えているような価格を維持することはユーザーが許さないでしょう。

ですが、“レコード/CDが時代遅れになること”あるいは“音源の値段が下がる(無料になる)こと”と“録音された音楽が価値を失うこと”は全く違います。

以前も、

そもそも、「レコード」が「ライブ音楽を収録する為に使われていた」なんて何十年も前の話。現在では、「ライブ音楽をレコードに収録する」という手法と「レコード音楽をライブで再現する」という手法は等価になっており、文化的な価値に差異はない。ライブでの一過性を求められるアーティストもいれば、レコードの再現性を求められるアーティストもいる。求める側のファンも同様だ(「他人のレコードをかけるだけ」のDJが、なぜあんなに人気なのかを考えてみればいい)。

「レコード」が登場してから、「ライブ音楽の録音」という手法から始まり「ライブでは鳴らせない音を鳴らす」という「レコード芸術」へと発展していったのがポップ・ミュージックの歴史なわけで、その文化的変遷やコンテンツの特性を無視して産業構造の変化だけを語るのは馬鹿がやることだろう。「ライブ音楽」では絶対に生みだすことのできない多くの素晴らしいコンテンツを「レコード音楽」は生みだしてきたわけで、「レコード」と「ライブ」の関係はそんなに単純なものじゃない。真に「コンテンツとしての音楽」を語るなら、この「レコード」と「ライブ」の相関関係をもっと多元的に捉えなければ本質を見逃すことになる。

『WEB2.0時代』のアーティスト代表例(おっさん向け) - 想像力はベッドルームと路上から

こんな感じで書きましたが、これだけはほんと、何度繰り返しても足りないくらいです。


ベルリナーの発明によりレコードが大量生産可能になってから約100年。その間、レコード音楽は大きな変化と成長を遂げています。ここ20年だけを切り取っても、ヒップホップ、テクノ、ハウスなど“新しい音楽”は全て「レコード文化」から生まれたものです。

ヒップホップ(ブレイクビーツ)は2台のターンテーブルでレコードの同じ部分を繰り返しかけることによって“発明”されましたし、テクノやハウスは“バンド演奏”ではなくDJカルチャーにより生み出されました。

それだけではありません。

DJ Shadowは閉鎖されたレコード屋の地下倉庫に潜り、そこに埋もれていた膨大なレコードとPC、サンプラーを使って“一度も楽器を弾かずに”新しい音楽をつくり上げました。

DJ Shadow - Midnight in a Perfect World


The AvalanchesはShadowと同じ手法を使って“引用だけでも芳醇な物語を構築できること”を証明して見せました。

The Avalanches - Since I Left You


OvalはCDにフェルトペンで線を引いて人為的なエラーを発生させることにより「グリッチ」というビートを発明、人間とテクノロジーの新しい関係性を提示しました。

Oval - Tonregie


骨董品となりつつあったジャズはGilles Petersonら多くのDJの手によって新しい息吹きを吹き込まれ、再び“最先端の音楽”の地位に返り咲きました。

The Five Corners Quintet - Lighthouse

このように“レコード文化を下敷きにした新しい音楽”は今も発展を続けています。


前述した通り、“レコード/CDが時代遅れになること”あるいは“音源の値段が下がる(無料になる)こと”と“録音された音楽が価値を失うこと”は全く違います。

前者は流通と消費の構造だけを分析していれば判断できますが、後者はその中身や変遷まで掘り下げないと判断することはできません。音源の無料化を推進する人の中には、前者だけを見て後者も価値がないと判断している人が少なからずいるように思います。

そのような人達は、自身の主張がこれまで「レコード文化」が積み重ねてきた文化的蓄積を無視しているだけでなく、音楽がネットに“開放”されることで生まれる可能性までも放棄する、原理主義的な言説であることを認識するべきでしょう。

実際に周囲を見渡してみても、人々は“録音された音楽”に群がっています。このような状況を鑑みれば、否定されているのは“CD/レコードを買う”という商慣習だけで、「レコード文化」の基盤である“録音された音楽を聞く”という文化的行為の価値が否定されているわけではないのは明らかです。

もし本気で“録音された音楽が価値を失うこと”を主張したいのであれば、100年以上に渡って積み重ねられてきた「レコード文化」を総括し、それが“視聴”という行為や(ライブ演奏を含む)音楽のあり方にどのような影響を及ぼしてきたのかをひとつひとつ検証する必要があります。

その過程を放棄し、ただ時計の針を“レコード以前”に戻せば全て解決するかのように触れ回るのは、音楽にとって害悪以外の何者でもありません。


遅かれ早かれレコードやCDは死に絶えるでしょう。しかし、“録音された音楽”が死に絶えるわけではありませんし、「レコード文化」が生み出した音楽が消えるわけでもありません。そして、それを求める人が消えてしまうわけでもないのです。


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