「いじめはからは逃れられない」っていう概念こそ「いじめ」の巧妙な罠。
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20061114/shakai061114
id:ululunさんは見事に「いじめる側」の戦術に嵌っていると思った。
なので、この本を読んでみるといいと思う。フーコーでもいいけど。

- 作者: 酒井隆史
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2004/05/21
- メディア: 単行本
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僕が「ゲームを降りろ」と言ったのは、「自分を<いじめられ>という状態に押し込んでいるゲームから降りろ」という意味。
でもって、
いじめとは、いじめる側が一方的に作り上げた理不尽なルールによって、いじめる側が終わりを宣言する迄続けられるゲームではないのか。
ならその「いじめる側のルール」が及ばない所に行けばいい。そうすることで一方的にそれを終わらすことができる。「いじめる側のルール」はただの「ローカルルール」に過ぎない。
また、「いじめ」は権力ゲームにおける一状態であって全体ではないので、「権力ゲームから降りること」と「いじめから降りること」は符合しない。
「いじめからは逃れられない」という概念は、ある特定の集団における「一状況」でしかないはずの「いじめ」を、さも社会全体を取り巻くものとして捉えさせ、その集団からの退路を断つ「いじめる側」の巧妙なレトリックだ。
いじめがゲームであるのなら、そのどちらを選択してもプレイヤーたるいじめられっ子にとっては「負け」を意味している。「負け」ではなくするには「ゲームから自ら降りても負けではない」というだけの具体的なものを整備する必要がある。
「あるゲームでの敗北」は「その他のゲームでの敗北」に直結しない。「あるゲームでの敗北」はその個人を否定するものではない。Aというゲームの敗者は、Bというゲームでも敗者になるわけではない。AとBではルールもプレイヤーも異なる。ただ、「フィールドを移動する」だけのことである。
また、具体的なシステムの整備が必要ならとっとと整備すればいい。システムの問題から「いじめからは逃れられない」というのなら、逃れるルートと場所の確保を可能にするシステムを構築すればいいだけの話じゃないか。転校だろうがフリースクールだろが、まだ社会的なコストはかかるが既に「選択」は可能な状態になっている。
それらの選択を困難にしているのは、システムの問題なのではなくむしろ心理的な要因の方が大きいのだと僕は思う。「いじめる側」の戦術に絡め取られ、本来「ローカルルール」でしかないはずの「いじめる側のルール」を、世界全てを取り巻くルールであるかのように錯覚してしまっているのではないか。
どこに行ってもいじめは存在している。逃げ場なんか無い。その事を「知って」絶望したから自殺したのではないだろうか。
一体「どこ」に行って「何」を知ったと言うのだろうか。たかだか自分の「半径5メートル」の範囲を知ったくらいで世界の真理を知った気になるなんて、これが「いじめ」に関連していなければいい笑い者だろう。そのくらい、「いじめる側」の戦術に絡め取られると周囲が見えなくなってしまうのだ。
「移動すること」は生物に許された生存の為の能力であるのだから、堂々とそれを行使すればいい。それを困難にしているのは「いじめの内面化」による「いじめる側」の戦術に他ならない。
ゲームもフィールドも「いじめられっ子」が思っているより遥かに豊富で多様性に満ちている。君が「いじめられない」ゲームも確かに存在する。「いじめる側」の戦術がその認識と選択を困難にしているのであれば、その戦術そのものを暴くことによって「移動」にかかる心理的なコストを軽減することができると僕は考える。
だからこそ、構造的問題としていじめを認識させることが必要なのだと思う。「道徳教育」による内面のアプローチより、そちらの方がよほど有効なのだと思うのだけれど。
ちなみに、その是非問わず僕はこれを語ることで少しでも社会に働きかけることができると思っているので、堂々と主張することにする。いじめをその「当事者性」という視点から自分と切り離そうとする姿勢こそ、「孤立化」というまた別の「いじめる側」の戦術だと思うから。