「脱文脈化」できてないですよfinalventさん

脱文脈化ということ: 極東ブログ

なにやら私のブコメが琴線に触れたらしいので簡単に答えておきます。

愉快だった。読み違えしているかなと思えるのは一点、「深刻ぶった」というくらいで、どうも「バブー」のベタは受けなかったようだ。つまり、他の指摘は当たっていると思った。二つある。

一つは「こうやってごく基本的な経緯すら把握していないくせに」である。まあ、それでいいと思う。他のはてなーず(「女子ーず」みたいだな)のコメントに、「私はシャルリだ」の背景もわからんのか爺、みたいのもあった。

どう理解されているかの弁解でもないが、私は、この話題を「脱文脈化」したいのである。

脱文脈化というのは、人々がある方向性の受容している前提となる文脈を入れ替えることである。そうしたとき、命題はどのような意味を持つだろうか。

「基本的な経緯すら把握していない」という指摘について「当たっている」と認めていただいたのでそれを前提に話を進めますが、基本的な経緯すら把握していない人間がどうやってそれにまつわる話題を「脱文脈化」するのですか?

デリダの名前を出しているから「脱文脈化」とは「脱構築」に近いことを文脈において行うということだと思うのですが、であれば「脱構築」が対象の構造を把握したうえで行うものであるのと同様に「脱文脈化」も対象の文脈を把握していることが前提になるはずです。「脱構築」にしろ「脱文脈化」にしろ、対象の構造/文脈を無視して好き勝手に組み替える行為ではないですよね。

そして、文脈を把握するためには「だれが、いつ、なぜ、だれ(なに)に対して、なにを言ったのか」という基本的な経緯の確認が欠かせません。特に、今回は特定個人の言動ではなく「保育園落ちた日本死ね」をきっかけにした広範な“話題”が対象なのですから、より複雑な経緯を把握しておくことが求められます。その過程を経ずして“人々がある方向性の受容している前提となる文脈”を把握することなどできませんし、把握できていないものを入れ替えることもできません。

今回はネットを発端としたアクションだったこともあり、事の経緯は概ねネットで辿れますし、件の増田を書いた方はもちろん、「保育園落ちたの私だ」というタグに呼応した人や国会前でアクションを行った人などたくさんの当事者の声を拾うことができます。まずはそれを丁寧に確認していき基本的な文脈を把握することこそ「脱文脈化」の第一歩です。

逆に、上記の過程を欠いた「脱文脈化」は、結局のところ書き手の一方的な主観を対象に貼りつけた挙句、好き放題いじくりまわして元の姿とは似ても似つかないものに仕立てあげるという行為に過ぎないのです。

実際、finalventさんが「脱文脈化」を企図して書いたとする2つのエントリは、本来抑えておくべき経緯のいくつかが無視されているがために、元の言葉の意味やそれが向けられている対象と彼が説明するそれに大きなズレが生じており、当該議論を追っていた複数の人間に強い違和感を抱かせることとなりました。それはこの「基本的な文脈の把握」を怠っていた結果起こった事象です。

恐らく当初から「脱文脈化」を企図していたわけではなく、最初に書いたエントリ対してあまりに事実関係の誤解・誤認を指摘する声が多かったため、その言い訳として「脱文脈化」という目的を後付けしたのでしょう。それすら今まで説明した通り成立しないものなのですが。

「脱文脈化」云々という話であれば、「日本死ね」という言葉を軸に、それに呼応するものだけではなくそれを否定的に捉え反発するものも含めて精査し、それぞれが抱える“日本”や“死ね”という言葉の対象や範囲を丁寧に見ていくことを通じてはじめて“ナショナリズムと主体の関係を問い直”す、なんてことができるのではないかと思います。私はそれをする気はありませんけれど。

で、そもそもの話ですが、「脱文脈化」が目的でなくとも、考察や批判を行うのであれば「基本的な経緯の把握」は当たり前にやるべきことですよね。“市民と原理性と市民の具体性において、マスメディアを介して怒りの情感を醸成するものに危惧を抱く”と言いながら、何故か実際に交わされている言葉とそれが発せられるまでの経緯を把握しようとしない。これは極めて不自然かつ不誠実な態度です。

わざわざ“市民はブログを通して、直接自由に声を挙げられることができる。それを実証するために、ブログを10年以上も続けてきた”と書ような人がその程度の基本すら抑えていないのは正直どうかと思いますし、そんな人に“私たち市民は、市民の言葉を大切にするがゆえに、私たちの市民が政府を作り上げる”と言われても薄ら寒さしか感じません。

“社会のなかにできるだけ異なる声を上げること”は大切ですが、そのために他者の言葉を捻じ曲げ踏み台にする必要はないでしょう。アーレントが民主社会に求めたのはそんなことではないと思うのですが。