「ゼロ年代の音楽」と「初音ミク」

最近読んで面白かった音楽を巡るいくつかのテキストで、何人かが同じ現象を別の言葉、別の視点で語っていたので最近考えていたことも含めてつらつらと。

(※以下僕の適当な要約や主観を含むので、この手の話に興味がある皆様におかれましては原典や個々のコンテンツに当たられたし。あとアーティスト名は敬称略。)


ひとつは井手口彰典さんの『ネットワーク・ミュージッキング』という本。ここでは、楽曲がCDやレコードなど物理的な制限の強い物理メディアから、取得・複製の自由度が高いデジタルデータをネットワークベースで交換する時代となったことを背景に、音楽とリスナーを巡る関係が、「ものを持つこと」に意味を見出す“所有”から、コミュニケーションなど様々な欲求を瞬間的に昇華するために必要なコンテンツを膨大な「リスト」から都度選択する“参照”に移行したと論じられている。

ふたつ目はid:loco2kitさんの昨日のエントリ。ここでは、リスナー側の視聴環境の変化が90年代から続く並列化と細分化をさらに加速させ、その“狭いサークル”の中で様々な情報が共有されているという前提で新たな表現が生み出されていった結果、その前提となる知識や情報が“圧縮記号化”され、ひとつの作品、ひとつの音により多くの情報が込められることとなった、と論じられている。そして“圧縮”されたそれらの“記号”における、(他の“狭いサークル”で生まれた)別の“圧縮記号”との隣接・反応という可能性も示唆されている。

最後に原雅明さんの『音楽から解き放たれるために』に収録されている「word and sound」及び「recycling」というタイトルの論考。ここでは、コード9やフロスティの現状認識、またLAの「ダブラブ」が展開している様々なアクションを下敷きに、音楽における“並列化”の駆動装置でもあるDJカルチャー、サンプリングカルチャーが、歴史との関係性や物語性などの重層的な意味を包括するようになったことで、過去蓄積されてきたアーカイブから最適なサウンドを抽出し現在に蘇らせる“リサイクル”という行為が可能となり、スタイルやフォームの“更新”という脅迫観念から音楽を開放し、より豊かな視聴体験をリスナーに提供することが可能になると論じられている。

これらは「ゼロ年代の音楽」を語る上で必須の論考と言っても良いだろう。また、いち音楽好きとしてもここで語られている現状認識と自分が体験してきた(いる)それは相違ないもののように思う。


そして、今日の(日本における)音楽の現場において、これらの現象のサンプルとして最も的確な“アーティスト”が「初音ミク」であることに疑いの余地はない。

ミクが「圧縮記号の集積」であることは登場直後から語られていたことであるし、“情報の圧縮”という傾向は、歌詞やサウンド面に留まらず、ヴィジュアルや付属するタグからも読み取ることができる。

また彼女に関連したコンテンツの大半はCDやレコードを中心とした旧来の視聴形態ではなく、ニコニコ動画を中心としたネットワークベースの(井手口さんの言葉を借りれば“参照”という)視聴形態とともに広まってきたことは今更指摘するまでもない事実だ。
(ただし「初音ミク」においてでさえ、CDなど物理メディアを経由した“所有”という視聴形態を求めるリスナーが少なくないことは頭に入れておくべきだろう)。

原雅明さんの言う“サウンドのリサイクル”という現象も、初音ミクというフィルターを通じて行われている。過去の楽曲の掘り起こしにミクが利用されることはもちろん、特定のジャンルで使用されてい過去の音像を再構成し、現在のリスナーに提示するといったコンテンツも増えつつある(個人的には“ミクトロニカ”周辺にそのような傾向を強く感じた)。


現在のところ「初音ミク」にはおおまかに2つの役割が与えられている。

ひとつは“キャラクターとしての初音ミク”。もうひとつは“メディアとしての初音ミク”。“メディア”という言葉を言い換えるなら“ヴィークル”や“ディスプレイ”になるだろうか。いずれにせよ、上に並べた現象はすべてミクの後者の役割によって生まれたものである。

ジャンルを問わず、ある技術や表現を広域に広めるためのツールとして「初音ミク」が選ばれていることは、関連コンテンツの量やバリエーションからも明らかだ。ミクはその内実の希薄さと(ヴィジュアルなどのいくつかの要素を除いて)いくらでも書き換え可能な代替可能性によって“メディア”としての役割を十二分に果たすことが可能になっている。

その傾向はミクに関連した音楽からも見て取れる。初音ミクを使用した楽曲のうち、“キャラクターとしての初音ミク”に依存した、あるいはそれを補強するタイプのものと、それを無視する、あるいは全く別のキャラクターが与えられるものの二つに大別されることは過去何度か語られてきた。

しかし、ミク自身がそうであるように、それらは必ずしも分離されるわけではない。ミクが持つもともとの文脈を巧みに活かしながら、あるいはそれを解体・再構築し、全く別の文脈、全く別の音楽的価値を付加して提示しようとするクリエイターも存在する。

そのひとつの例がimoutoidによる『ファインダー(imoutoid's Finder Is Not Desktop Experience Remix)』だろう。

主旋律はほぼ原曲そのままであり、また楽曲を構成する個々の音やリズムもひとつひとつを解体していけば新しいものは見当たらない。いずれも“どこかで聞いた音”であり、それぞれに個別の意味や感情、記憶が内包されている。しかし、この楽曲ではそれらの音が巧み配置される(本来あるべき位置からずらされたり、わずかに揺らがされたりする)ことによって、「テクノ」や「エレクトロ」「エレクトロニカ」などとは違った、“どこかで聞いたことがあるのにいちども聞いたことがない音楽”としか言いようがないサウンドスケープを構築している(これと同じ感覚を竹村延和やレイ・ハラカミを初めて聞いたときに感じた)。

そして、それらバラバラに配置された音と、そこに内包された意味や感情や記憶が、「初音ミク」というキャラクターが持つ文脈に統合され、ひとつの“新しい物語”に昇華されていく様は圧巻としか言いようがない(正直、僕のこのテキストなんて蛇足もいいところだ。皆いいヘッドホンでこの曲を聴いてくれ)。多くの人が言う通り、初音ミク関連の楽曲の中でも現在最高の一曲であり、また2009年を代表するトラックでもある。


そして、惜しくも今年4月に急逝した彼と同世代のクリエイターたちによって同種の試みが行われている。「サークルおかのうえ」による『Rebuild the path:Catalinaosy』がそれだ。


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詳細は告知用サイトとmixを参照して欲しいが、ミク関連の常連クリエイターとは別のフィールドにいる、しかし非常に面白い面子が集まっている。冒頭を飾るtofubeatsのエディットっぷりは既に貫禄が出てきたし(“彼の親友”であるdj newtownの最新トラックも素晴しいので聞いてくれ!)、Nyolfenやoutstandingによる端正なトラックはそのままクラブヒットしてもおかしくない(特にoutstandingのハウス・トラックは最高に好みな音)。

しかしこのコンピの白眉はSilvanian Familiesによる「キミの星を歌いにいくとちゅう」のリミックスだろう。アクフェン風のカットアップから始まって、様々な音やリズムが数小節単位で目まぐるしく入れ替わりながら、しかし決して破綻することがない構成はさすがの一言。うまく言語化できないのが正直歯痒い。

このCDは明日(っつーか今日じゃねぇか!)のコミケ領布予定。とらのあなでも委託されるとのこと。初音ミク関連の曲をあまり聴いてこなかった人や、正直好きじゃないという人は是非この作品を聴いてみて欲しい。「初音ミク」というキャラクターへの依存度はそれほど高くなく、またどのトラックもそのままクラブやポップ・フィールドに出しても通用するほどのクオリティを維持しているのですんなり聴けると思う。苦手な人にとっても、既存の「初音ミク」のイメージを書き換えてくれる作品となるはずだ。同人CDにありがちなマスタリングの不具合もない。

初音ミクに関係なく“注目の若手クリエイター見本市”として手元に置いておくのもいい。loco2kitさんの言う“圧縮記号をより肉体的に扱う新世代”は、恐らく彼らのようなクリエイターを指しているんだろうから。


さて、つらつらと書いてきたが、エントリ冒頭、3つの論考をこの順番で並べたのは理由があって、それは井手口さんが論ずるリスナーの聴取スタイルの変遷と、loco2kitさんが論ずる音楽における表現スタイルの変遷が、最終的に原雅明さんが語る“循環と再生”に結実して欲しいというごく個人的な願望からである。

音楽産業を巡っては最近悪い話しか出てきていないが、しかし上記のような新しい感覚を持った世代が新しい方法で自らの音楽を広めようとしているのを見ると、行き詰っているのは音楽“産業”だけで、実のところ音楽を取り巻く環境はより自由かつ豊かになっているように思える。

なんにせよ、次の10年でもまた素晴しい音楽に出会えることを楽しみにしております。

ネットワーク・ミュージッキング―「参照の時代」の音楽文化 (双書音楽文化の現在)

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音楽から解き放たれるために? ──21世紀のサウンド・リサイクル

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