「渋さ知らズ」で踊り狂う小学2年生は果たしてサブカルなのだろうか・・・

inumash2006-03-06

いわゆる個性化時代です−日日ノ日キ
聞くことの忸怩−オオツカダッシュ
これから音楽に出会う若い人たちへ〜ダッシュ君、そしてダッシュ君と同じ気持ちの人に向けて〜−日日ノ日キ


まず単純な疑問として。

ピクシーズサブカル」って構図がよく分かりません。サブカルなの?じゃあダイナソーサブカルですよね。ライドも?マイブラも?ニルヴァーナサブカルじゃないですよね?じゃあストーン・ローゼスは?プライマル・スクリームは?僕の大好きだったオアシスもサブカルなんでしょうか?洋楽聴いてる奴はみんなサブカルなのかな。不勉強で申し訳ないけど、誰か「サブカル音楽」の明確な定義を教えてくれないでしょうか。


で、一つ気になったのですが、この「感性による差異化ゲーム」が機能するのって、音楽になんらかの記名性があることが前提ですよね。小西さんや小山田さんがやったことって、それこそ「記名性とそれに付随するイメージ」を利用した差異化作業なわけで。

で、ここで疑問が。

音楽を受容するのに、本当に「記名性」って重要なんでしょうか。

例えばトニオさんが好きだったAsh Raを一切の記名性を感知せずに「ただアシッドでブッ飛ぶ為の道具」として受容している人もいるわけです。そこに「差異化ゲーム」が入り込む余地はあるのでしょうか。

あと、テクノやトランスに関しても、音楽の「記名性」よりも「機能性」に重きを置いているジャンルだと思うので、この「差異化ゲーム」は機能しませんよね?それともテクノやトランスを聞いてる時点で、「差異化ゲーム」の参加者になってしまうのでしょうか。「記名性」という文脈で並べられたカタログを受容することと、「機能性」という文脈で並べられたカタログを受容することは果たして同じ行為といえるのでしょうか。

トニオさんが問題にしているのは、(恣意的な視点による)記名性によって音楽が受容されること、それとどう向き合うかだと思いますが、その前提である「記名性」ってどこまで受け入れられているものなんでしょうか。少なくとも僕にとって「音楽の記名性」なんてひたすらどうでもいいことです。例えばベーシック・チャンネルのドローン音とウラディスラフ・ディレイのそれがどう違うかなんて差異化はどうでも良くて、あるいはそれらを聞くことの意味もどうでもよくて、ただその時、その音が必要だったというだけだったりします*1

で、実在するタイトルの小学2年生なんですが、彼はフジロックに毎年行っていて、それこそその辺ほっつき歩いて自分の気に入った音楽やら店やら人やらを発見して大喜びしているわけです。「フジロック」という限定された場所で、そのような受容をしている彼は不幸とよべるのでしょうか。彼はなんらかの「記名性」やそれに付随する文脈によって選択しているわけではないのですが。

音楽やその他全ての文化を巡る恣意的な視点から脱却すること。それが僕が音楽を聞く理由の一つです。別に他者の視点も正史も関係ない。自分の歴史を作ってしまえばいい。自分の地図を書けばいい。想像力の発露こそが、音楽において最も素晴らしい要素だと思うのだけれど。そう、トニオさんが皮肉交じりに「オサレ」だとしたアヴァランチーズの様に。

あと、吉田アミさんは、その辺りをどう考えているのか、ちょっと気になりました。「吉田アミの音楽が好き!!」と言われるのと、「気に入った音楽がたまたま吉田アミだった。」というのでは、どのような差異があるんでしょうね?

ああ、やっぱり音楽の話は面白い。でも「サブカル」か「オタク」絡めないと盛り上がらない気がするのは僕の思い込みだろうか・・・

*1:もちろん、音楽そのものやアーティストへのリスペクトはしてますが