「再構成された過去(未来)」としてのギャルゲー

inumash2006-03-14

オタクをめぐって〜首塚の上の無頭人

はてブ経由で見つけたエントリ。何かずいぶんと的外れな分析のような気がしますが、その辺り「文学」として何かを消費しようとする層と、「データベース」として消費しようとする層、それぞれの対比としては面白いと思うので取り上げてみます。

そもそも彼はギャルゲーやエロゲーを「文学」と対比させ、それらにおける主人公の特異さを際立たせようとしているのですが、双方の視点が異なるのは当然のことです。そもそもの受容の形態が違います。

何故エロゲーやギャルゲーの主人公から「他者性」を排するのか、なんてことは、「オタク」がどのようにそれらを受容しているのかを考えれば一瞬で理解ができます。

「オタク」はそれらを自身の記憶や経験のシミュラークルとして受容しているからです。つまり、有り体に言えば「こうあったかもしれない/こうあるべきだった」過去(あるいは未来)として受容しているのです。

自身の記憶や経験のシミュラークルである以上、主人公から「他者性」が排除されるのは当然のことですし、同時に過渡な感情移入を図ろうとするのも同様の構造からでしょう。

同じように、キャラクターと物語の陳腐化に関しても「シミュラークル」と「データベース」によって説明が可能だと思います。

自身の経験をそのままトレースするだけでは、エンターテイメントとしては機能しません。そこで、いくつかの要件を過去蓄積されてきたデータベースから抜き出し、再構成する必要があります。同時に、その再構成の過程の中で、当然の如く様々な個人的な願望も盛り込まれさらに増幅されていきます。

彼は「キャラクターの陳腐化と作者のあざとさが物語の死を招く」としていますが、それは違います。キャラクターが個々のデータベースから集められた記号の集積であるのと同様にして、物語もデータベースから抜き出されたサンプルの蓄積に過ぎません。ギャルゲーやエロゲーにおいて、物語は既に一度「死んだもの」として想定され、フランケンシュタインの如く各部位を繋ぎあわされた形で再生します。そして受け手は、「再生されたもの」として物語を追体験しているのです。つまり、「キャラクターを愛する事」と「関係性に酔う」という事は、共に対象が「記号の集積である」という点において同種の行為に過ぎません。

動物化というのはそもそも、「無限にあるデータベースの中から、自身の満足する順列を発見し、それを消費する事で充足する行為」であると僕は考えています。その視点で言うならば、シナリオの優劣をつける行為は、他者の視点が介在する事による不快感を排除する行為であるように見えるし、メッセージ性を受け取る事による美化作用は単純に快楽の強度を上げる行為として説明ができるのではないでしょうか。

「オタク」の動物化は単にエロゲーやギャルゲーの消費スタイルによるものではなく、関係性や物語も全て「データベース」と「シミュラークル」に昇華させてしまう行為として立ち現れるのだと思います。

と同時に本田氏が提示したのは、「現実の関係性も既に記号の集積ではないのか」という視点に過ぎません。彼が言う「妄想」とはあくまでも「記号の集積を楽しむ行為」であり、「恋愛資本主義」もまた記号の集積であるならば、そこに優劣は存在しないのだ、というのが彼の主張であって、それは至極真っ当なものであるように思います。

大塚英志は『「おたく」の精神史1980年代論』において、80年代が「主体」の喪失としてあったとしています。そこで喪失されたとされる主体をどのように再帰させるのか、あるいは何に代わらせるのかという問いの回答の一つが、動物化であり本田氏の主張であるのではないでしょうか。