足りないのはKLFとアビー・ホフマンなんじゃないの?

inumash2006-03-20

反自由党は卒業式での日の丸・君が代の強制を断固支持する(前篇)〜元登校拒否系
「学校」という記号を離れて〜モジモジ君の日記。みたいな。
「反自由」の意義〜世界、障害、ジェンダー、倫理

真面目な社会学論議をしているところに割り込むような事をして大変恐縮ですが、最近考えている事も踏まえて、少し感覚的な話をしたいと思います。(もちろん、学術的な裏づけがある話じゃないので、軽く読み飛ばして頂ければ幸いです。)

まず、「学校が個人の自由を限定する場所」であることは、フーコーを持ち出すまでもなく、多くの人が感覚的に理解している事なのではないかと思います。僕もそうでした。物心ついた時から「教師は所詮サラリーマン」だと思ってましたし、校則などに関しても「数年間だけ我慢すれば済む事」だと思って特に反抗などはしませんでした。と同時に、「校則を破っても叱られない方法」や「誰にも見つからずにサボれる場所」をきっちり探しておく事も忘れませんでした。当然、子供の浅知恵ですから、しばらく経つと先生にバレて、また新しい方法を考えなければいけません。結局は教師とのイタチごっこになるわけです。

しかし、翻って見ると、自分の左翼的思考や言説の原点はこの経験にあるような気がするのです。僕は別に「自由」や「権利」と言った概念そのものを欲しているわけではありませんでした。恐らく、僕は既存の価値観や仕組み・規則に対して、「その盲点を突く」ことに意義を見出していたのだと思います。

恐らく、我々個人を縛り、管理するものとしてシステムは存在し続けるでしょう。であるならば、それを否定するのではなく、むしろそこからの退路を確保する、あるいはそれを無効化する手法を選び実践することの方が実用的な手段であるように思います。

そのように考えた場合、「学校」というものの存在意義も変わってくるのではないでしょうか。つまり、「既存のシステムに対抗する戦術」を学び、実践する場所としての「学校」という価値が浮かび上がるような気がします。僕には、「学校」というものが酷く魅力的に思えてくるのです。

それこそ、「自由とは相対的なものか、それとも本質的なものか」みたいな話になってしまって苦手なんですが、個人的には「学校」という画一化装置を体験することにより、それまで見ることができなかった制度や価値観というもの(要するに自分が入っている檻の存在)を可視化することができるという意味で、「学校」は有効に機能するのではと思います。

だからこそ、id:toledさんの言うとおり、「日の丸・君が代は積極的に強制されるべき」だと考えます。同時に「学校教育」なんてものは画一的であればあるほどいい。そこから零れ落ちるものが多ければ多いほど、その受け皿が必要になる。恐らく教育による多様性の確保なんてものよりも、その受け皿の多様性を確保することの方が有効なのではないでしょうか。まあ、要するに「魅力的なカウンター・カルチャーを創ろうぜ」ということなんですが。

かつて左翼が既存のシステムに対抗して生み出した戦術や表現の中には、それこそ「そこでしか生み出せなかった美/快楽」が存在しているのだと思います。68年のパリ五月革命然り。ウッドストック然り。セカンド・サマー・オブ・ラブ然り。

アビー・ホフマンやKLFの痛快さは、それこそ彼らが対抗する「権威」や「権力」があってこそ際立つものです。そうした文化に触れる機会をつくること、そうした視座を失わないことこそ、「左翼」に求められていることではないかと思います。

「授業より面白そうだから」という理由だけでイラク戦争反戦デモに参加したロンドンやパリの小学生は、今後どうなっていくのか、ちょっと楽しみです。

あ、後編も楽しみにしています。