「選択すること」「反抗すること」は思考を繰り返すことではないのか

多様性は事実であり、価値ではない〜モジモジ君の日記。みたいな。

書いたり消したりしてなかなかまとまらなくて遅くなってしまったけれど、僕の「本質」という概念そのものを無効化する戦術に関してid:mojimojiさんから上記のレスを頂きました。

まずは、僕の安易な思考に対して丁寧に矛盾等指摘して頂いたことに心から感謝します。と同時に、やはり納得できない部分があるのでもう少し僕の戯言に付き合って頂ければ幸いです。

「多様性」とは、社会における留保の余地である

id:mojimojiさんの仰る通り、多様性の価値を巡る論理には詰めなければならない点が多いと思います。残念ながら僕は専門家ではないので、学術的な観点からこの部分を詰めるのはハードルが高いので控えます。ただ、個人的には「多様性」は「留保の余地」として確保されるべきだと考えています。

「多様性」は確かに事実であって、価値ではありません。しかし同時に、社会において「多様性」はあらかじめ制限されるものとして組み込まれます。その制限をどこで留めるか、その視点が社会を構築するにあたって重要であるということに疑いの余地はないでしょう。そうした場合、あらかじめ制限されるものとして想起される「多様性」には、その性格から社会的な価値が生まれると考えて良いのではないでしょうか。

そのようにして社会に組み込まれた「多様性」は、様々な社会的要請に対して判断を留保する為の視点とスペースを与えることができると思います。そして、社会的要請が必ずしも定型を取らない以上、その視点とスペースはできる限り多い方がいい。もちろん、「留保の必要のない要請しか行わない社会」があれば理想ですが、それは期待できない。

僕が言葉足らずだったこともあって、誤解されてしまった部分もあったのですが、これは基本的に「選択肢」レベルでの話です。ですので、表現の自由そのものを担保とした表現に意義を見出す事はできません。しかし同時に、「新自由主義的な思想を持つ人が現にいる」「難病者や障害者など、全部死んでしまえばいいという人が現にいる」という類の多様性、あるいは表現を全く無為なものとして扱うことはできません。その思想を表現すること自体を「タブー」とするのではなく、そのような要請が一体人間の何処からなされるのかを深く思考するすること、それを繰り返すことを僕は「価値」だと考えています。

「抑圧」は必ずしも外部に働くわけではない

だから、inumashさんが「抑圧する力にもなりえる」ということで何か考慮すべき大事な論点があるのだと考えているなら、そこはもっと具体的に記述される必要があると思う。今のところは、「そうだよ。で、何か」という切り返しで済ませてよいレベルの話に見える。

僕が「<現にそうである私>を力強く肯定する力の抑圧性」に関して想起したのは、例えばそれらの存在を許さない外部の人達に対してではなく、むしろ同じ属性を持つ人々にそれが向けられる危険性があるのではないか、ということです。

<現にそうである私>といった場合、それは<私>だけでアイデンティティが構成されているのではなく、<現にそうである>部分、つまり付与された様々な社会的属性も<私>に組み込まれているわけで、それを肯定するということ=社会的属性を肯定することになるのではないか。とすると、同じような社会的属性を持ちながらそれを<肯定しない>選択を取る人、あるいは積極的肯定をしない人に対して、同調圧力が働く可能性があるのではないか、ということを考えて、あえてあのようなことを書きました。

そのような部分もあって、僕は「<現にそうである私>を力強く肯定する力」を無条件に肯定することはできません。

僕はそこまで「生の形態」に固執しない

僕は「青い芝の会の綱領」をそのまま「真理」として受け取ることはできません。この場合の「真理」とは、恐らく「哲学的真理」だと思いますが、僕にとって「生の形態」はそれほど重要ではないですし、「生」そのものへの執着は大きくありません。そのような人間はこの「青い芝の会の綱領」で謳われている内容を如何に受け取るべきなのでしょうか。少なくとも現時点でそれを「真理」とすることはできません。

だからといって、「別の真理」によって生きているわけではないのですが。

社会とは「壮大な実験場」であって、そこでは「選択し続ける事」=「思考し続けること」が重要であると僕は考えます。

基本的な回答は以上です。対抗文化に関してはまた明日。
あと、あのタイトルに関しては、いいタイトルが思いつかなかったので、深く考えずにつけたものなのであまり気にしないで下さい。