僕らは多分、「正当性」よりも「身体と領域の自由」が欲しいんだ。〜サウンド・デモの政治性〜(長いよ)

なぜ若者は政治運動をしなくなったか‐狂童日報
ミッキーマウスのプロレタリア宣言‐S子の部屋

この問題意識のリンクっぷりは面白い。一方で学生は社会運動の足場や契機を失い、一方で明確な政治意識を前面に出さないサウンド・デモが勃興する。このあたり、社会運動を考える上での変節の鍵があるような気がする。

サウンド・デモ」のベースとなっているのは「デモ」ではなく「野外レイヴ」だという点が肝だと思う。英国における野外レイブ発生の起源は(まあ、歴史を辿ればウッドストックとか色々あるんだけど)、アシッド・ハウス全盛期、クラブのドレスコードに引っかかった連中が、そのクラブの駐車場で勝手に音楽をかけて踊り出したことであるとされている。それが英国持ち前のD.I.Y精神と結びつき、農場やら廃屋やらを占拠(スクワッティング)して始めたのが「野外レイヴ」だ。

元々環境保護団体や反核団体などの左翼集団とも結びつきが強かったレイヴ・カルチャーが明確に政治性を帯び始めるのは、1994年に制定された『クリミナル・ジャスティス・アクト(criminal justice act)』を巡る反対運動に際してのこと。「レイヴ禁止法」として名高いこの法律は、名目上はドラッグの過剰摂取による事故防止や安全上の問題としてレイヴを制限するものとなっているけれど、実は、労働者階級からだけでなく、中産階級からも多数の若者が「トラヴェラー」として既存社会から脱落しており、その歯止めをかけるためだった、とする見方もある。

で、この法案が議会に提出されると多くのレイヴァー達は当然反対したわけだけど、その反対活動のピークとなったのがロンドンのハイドパークで開かれた「反クリミナル・ジャスティス・ビル(当時はまだ法案だった)」集会だ。参加者約10万人という規模で行われたその反対デモの最中、一部の集団がサウンドシステムを積んだトラックで乗り入れ、ハウスビートを打ち鳴らし始めたからさあ大変。デモの参加者は喝采をあげ踊りだし、警官は事態を収拾すべく右往左往。「レイヴを禁止する法案に反対するデモでレイヴが起こる」という素晴しい事態に、結局は機動隊の投入→警官に対する挑発・投石→警官の実力行使→一部暴徒化というお決まりパターンを辿るわけだが、恐らくこれが、政治とレイヴ・カルチャーが正面から衝突した初めての事例であるように思う。

で、サウンド・デモも多くの場合、この事例を参照しているように思うんだけど、ここで注目すべきなのは、「ただ集まって踊っていた」だけで何故かそれが政治性を帯びてしまった、という点。

運動に参加していたほとんどの学生は、政治に関心があったというよりも、ノリで参加していた面があったことは否定できない。そういうある種「かっこよさ」に惹かれて運動に参加していた学生は、周囲に若者向けの消費文化が成長すると、途端にそっちの方に流れていくことになった。特に1970年代には「アイドル」という名の芸能人が出現し、コンサートで熱狂して「親衛隊」などを結成する学生が多く登場した。

[狂童日報]

平井玄はサウンドデモを「神的な力」(ベンヤミン)、集団身体といった概念と結びつけることで、街路工場のノルム(行動規範)をかき乱す、もう一つの「踊り狂う工場」=オルタナティヴな生産のあり方を夢想する。
しかしそこには決定的に声や言葉が欠けている、と北里義之は指摘する(ミクシィ日記)。むしろ欠いているからこそ成立する集団性とも。たしかにサウンドデモにおいてその政治的旗幟はある程度あいまいにされる。あいまいにすることで多声的な交響空間が実現されているというわけでもない。

[S子の部屋]

この辺りを考えるに、最早(いや、もしかしたら昔から)、社会運動に明確なイデオロギーなんて必要ないということなんだと思う。もっと根源的な、ある意味では生物(動物?)的な領域にまで僕らは後退してしまったんじゃないだろうか。だから、それを一度取り戻さなければならないんじゃないか。そう、キーワードは「身体と領域の奪還」だ。

テクノやハウスで踊る時、僕が真っ先に感じるのは「身体の自律」だったりする。色々な音に神経を研ぎ澄まし、それに併せて身体の様々な部分を動かす。リズムが変わればそれに対応し、ブレイクがくれば反応する。これは平井玄が言う「デジタル・フリーター」の概念と合致する。しかし何よりも重要なのは、この身体活動を「自律」して行っている点。「デジタル・フリーター」でなくとも、全ての労働者は自らの身体機能を端末の一部として「切り売り」している。そしてその身体に命令を下すのは、その身体の所有者ではない。雇用主=資本だ。労働者、あるいは消費者として飼いならされた身体。テクノやハウスはその関係から身体を切り離し、所有者のもとへとコントロールを委譲する。その瞬間でのみ、僕らは自らの身体を取り戻すことが出来る。

そして、テクノやハウスで重要なのがもう一点。それは「領域の確保」だ。自由に踊る為には、それなりの空間を確保しなければならない。もちろん他者との関係もあるので、クラブやレイヴにおいては個々が自らの「領域」を規定し、その範疇の中で踊ることが求められる(時々、これがわからない馬鹿が場を壊すけれど)。これは、ロックの楽しみ方と比べると分かりやすい。BECKはかつて、『モッシュは「連帯」を、「サークル(モッシュしながらグルグル廻る行為)」は規則を表す』と言っていた。クラブでは基本的に身体同士は触れ合わないようにする。逆にロックのライブに行って、モッシュしているところで「領域の確保」なんて言ったら殴られるのがオチだろう。で、いくつもパーティーに行っていると分かるんだけど、本当にいいパーティーでは、例えばディスコカルチャーに見られるような分かりやすい一体感が無いことが多い。皆好き勝手に踊っていて、反応するポイントも歓声もバラバラなのに、何故か奇妙な一体感がある。その感覚はロックのライブでは決して得ることが出来ないものだと思う。

この2つの感覚と『街路(ストリート)を取り戻せ!!』という90〜00年代の反グローバリゼーション活動の趣旨が結びついたのがサウンド・デモなんだと僕は考える。だから、僕はサウンド・デモの政治的旗幟が曖昧にされているとは思わない。分かりやすいスローガンやイデオロギーを下敷きにしていないだけで、むしろ剥き出しなくらい政治的なんじゃないだろうか。街路という公共の場において、自らの意思で領域を規定し、身体を自らのものとして宣言する。これ以上分かりやすいステートメントは存在しないんじゃないかと思うんだけど。もうそこから始めるしかなかった、と言うことじゃないのかな。

個人的には、学生運動が失墜したのは快楽を排除したからだと思うし、サウンド・デモが一見政治的主張が希薄なように見えるのは、上記の文脈が共有されていないからじゃないかと思う。ではサウンド・デモが現実社会においてどこまで有効かと言われると、正直微妙なのが悩みどころではあるけれど。