地下から浮上した人、しなかった人、そしてまた戻ってきた人。〜80年代地下文化をめぐって〜

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※HDが大破し、データ消失した為、『デトロイト・メタル・シティ(DMC)』に込められた悪意〜クラウザーさんが「悪魔」の座から降ろされるとき〜その①「メタル基礎知識編」の続きはちょっとお休みです。


宮沢章夫さんの『東京大学「80年代地下文化論」講義』に関して、個人的には「新人類vsオタク」みたいな構図には実感も興味もないし検証もできないんだけど、「地下文化」という軸で読んでみたらちょっと面白かった。

僕は『東京大学「80年代地下文化論」講義』と、磯部涼氏の『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』をセットで読むことをお勧めする。

磯部氏の本は、基本的に90年代中期から00年代前半までのヒップホップを中心とした地下音楽の現場レポートといった内容で、時系列として80年代までを射程に捉えているものではない。

ただ、そこに登場する多くのアーティスト達の原点を辿っていくと、宮沢氏が語る風景と地続きであることがよく分かる。例えば、「ピテカン的空間」を継ぐものとしての「ZOO」。でも、当時の「ZOO」は決して「ピテカン的価値観」をそのまま引き継ぐものとして存在したわけではない。「80年代地下文化」から資本に回収されなかったもの、その集積が「ZOO」や、そして現代の地下文化へと受け継がれているのだ。磯部氏の本を読むと、そんな風に思えてくる。ま、当時箱根の山猿だった僕が現場を知るはずがないのだけれど。

で、そういった「回収されなかったもの」の象徴として、ここではデザイナー集団「イルドーザー」を挙げたいと思う。

「浮上した」80年代地下文化を引き継ぐ者の象徴として藤原ヒロシNIGOの名が挙がるならば、「地下に留まり続けた」者の象徴としてイルドーザーがあると僕は思う。裏原系文化の「デザイン」という実体を担い続けてきた彼らの出自や視線、そして何より「今」何をやっているのかを知ることで、「80年代」が消費しきれなかったものがいったい何なのかが見えてくるのではないだろうか。

イルドーザーの創始者である阿部さんと石黒さんは今でも地下に留まり続けている。サウンドデモや小さなクラブ、イリーガルなパーティをオーガナイズしたり、DJしたりしながら。

そして、「戻ってきたもの」の象徴は、やはりECDだと思う。一度「エイベックス」に浮上した後、幾多の逡巡を経て、結局は「オーディエンスと真摯に向き合う」為に地下に戻ってきた。それからの活躍ぶりはあえて僕がここで語るまでもないだろう。今彼の周囲はとても面白いことになっている。

彼らに共通しているのは、「地下」というもの、つまりは「スノビズム」という概念に一切こだわりがない部分だと思う。「地下」というシュチュエーションに一切の価値はなく、「楽しむ」為の選択の結果として「地下」に留まっているだけなのだ。それが、選択肢としての「アンダーグラウンド」と、浮上することを前提とした「インディ」の明確な違いだと思う。(『アンダーグランドvsアマチュア』!!)

実際、彼らの「楽しみ方」はとても真摯だ。80年代的なシニシズムニヒリズムなど一切感じない。ただストレートに「楽しむ」ことを追求する。そして、「楽しむ」為の場所を必死で確保しようとする。サウンドデモが行われる文脈もその延長に過ぎない。だから、イデオロギッシュにならないのだと思う。

やっかいな「80年代」に回収されなかったものは、今も僕らの足元にちゃんと息づいている。地下は深くて暗くて、そしてとても楽しい。

さあ、君も潜ってごらんよ。

※ちなみに、関西には別の文脈が用意されていると思う。ボアから00年代へ、みたいな。


東京大学「80年代地下文化論」講義

東京大学「80年代地下文化論」講義

ヒーローはいつだって君をがっかりさせる

ヒーローはいつだって君をがっかりさせる