「やらせ」に拘らず、「タウンミーティング」そのものを否定しなければならない〜「タウンミーティング」と「学校行事」の相似性〜

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やらせ質問と熟議民主主義 佐藤清文
タウンミーティングの嘘臭さ - 鈍想愚感

要するに、行政にとっての「タウンミーティング」は、学校にとっての「学校行事」と同じだって事なのだろう。

例えば学校側にとって、「文化祭」や「体育祭」は、一応は「生徒の自主性や創造力の発展」やら「健康な身体の獲得」やらといったお題目があるわけだが、そういった目的は既に有名無実化していることは学校教育を受けたものならば誰でもわかることだ。

それらの行事において最も重要とされるのは、「独創性に富んだ表現」でも「優秀な記録」でもないし、ましてやそうした目的に対して生徒が自主的にアイデアを出したり、切磋琢磨することではない。

ただただ、「何事も無く」終わることが最大の「成功」なのである。

タウンミーティング」もそれと全く同じだと考えるべきだろう。だからこそこんな話が出て来るのだ。

僕は別に、学校行事としての「文化祭」や「体育祭」が無意味だと言うつもりは無く、本来の目的とは別のところで価値を発揮しているケースもあるので、タウンミーティングという行為が全くの無価値だと言うつもりはない。

ただ、学校が本気で学校行事の本来の目的を実現しようとしていないのと同様、教育行政もこの「タウンミーティング」を市民との対話の場にしようなどと考えてはいないことは馬鹿でも分かる。であるならば、この「ポーズとしての対話の姿勢」を僕らは受け入れてはならないのではないか。

大体、「市民との対話」をする為に、わざわざ大げさに場所を借りて大勢を「召集する」必要なんて無いじゃないか。そんなに対話がしたければ、学校の保護者会にでも来ればより「生の」対話ができるんだし、必要なら子供がいる家庭に直接行って話しを聞けばいい。偉そうに壇上に踏ん反り返って、本当に「対話」ができるとでも思っているのだろうか。

「やらせ」に関係なく、このような官僚、あるいは政府主導の対話の場を僕らは積極的に否定するべきなのだ。ステージの下からいくら声を張り上げても彼らには届かない。だからこそ、僕らはまずこう言わなければならないのではないか。「話を聞きたいなら、まずは降りて来い」と。

もしそれを否定するならば、僕らは堂々と自らの権利をもって彼らを文字通り「引きずり降ろして」やればいいのだ。


しかし、この件やいじめによる自殺が発覚した学校の校長のコメント、あるいは、このエントリこのエントリを読むと、「教育」に関して基本方針を定めるべき人間がこれでは、子供が行き詰るのも仕方がないと思ってしまう。

彼らはそうした子供達に語るべき言葉を持たないのだ。なぜなら、全て「何事も起こさないこと」のみに全力を傾けてきた人達なのだから。「何事か」が起こってしまった後の対処なんてできるわけないし、そうした人達の感情など理解できるはずもない。