「いじめ」は「政治力の行使」の一形態である。なら、徹底的に行使させてやろう。

と最初に思ったので昨日のエントリの後半部分を極端に書いてみた。

本当はあれに生徒間、クラス間、学年間、更には生徒-教師、学校-教師、両親-学校、生徒-学校のような形で相互評価の仕組みを盛り込もうかと思ったのだけど、ちょっと過剰になりすぎるのでやめた。それが完全に組み込まれた場合、学校は完全なディストピアになると思う。

あの後半部分の下敷きとしているのは、id:nisemono_sanこのエントリと、アレクサンダー・ペインの『ハイスクール高校白書』で、学校の「調教機械」としての性質と、そして『ハイスクール高校白書』が示しているように、教室(学校)は既に生徒、あるいは生徒-教師をプレイヤーとしたかなり高度な「政治の舞台」であることを明示しようと思って書いたものだ。

これをただ単に「ネタ」として笑い飛ばすことは簡単だが、僕が明示した「あの学校」は、今の状況をちょっと過剰にしただけであって、荒唐無稽なものではない。

繰り返すが、教室は既に高度な政治の舞台であって、「いじめ」は「政治力の行使」(「政治力の発露」が表現としては的確なのかもしれない)の一形態に過ぎず、そこに「原因」や「目的」を見出す行為は無意味だと僕は考える。いじめている側にとっては「政治力の行使」そのものが目的だからだ。

でもって、id:z0racさんが(エントリの趣旨とは別として)本当に見事に表現しているが、

驚くほどの空虚さである。そこには言説などなく、ただ「形式」の提示のみがある。
対象も方法も関係なく、形式と結果を短絡させ直接的に現前させる。

2006-10-31

そう、実はこれこそが「いじめ」の正体なのだと僕は考える。

僕があのような「生徒権力」を夢想するのは、生徒による自治能力を強化することで生徒全体の意識改革や相互補助、問題の吸い上げ、あるいは自浄能力を期待するからではない。教室、あるいは学校における「政治」を徹底して形式化することが目的なのだ。

虐めは無くせない。だとするなら、虐めなど意に介さない。介す必要が無いという意識付けが大事なんだと思います。学校は閉鎖した1空間に過ぎず、そこでの価値感など、大した意味を持たないということを早くに教えること、それが一番の解決法です。

Kazu'Sの戯言Blog(新館) 誰がやっても同じ事

これを実現させる為には、「いじめ」を相対化する必要があるだろう。つまり、「いじめ」が形式化した「政治」の一部に過ぎず、更にその「政治」は、上部、あるいは外部にある別の「政治」によって簡単に覆されるということを明示する必要があると思う。そのようにしてはじめて、「いじめ」の原因から被害者の内面を切り離すことができるのではないか。

そのような「視点」を持つことは「いじめ」を受ける当事者にとっても、あるいは「いじめている側」、そして「傍観者」にとっても有用だと思う。

そして、外部、つまりシステムによる監視と管理は、その「政治」を取り囲む「外部権力」として必要とされる。

昨日のエントリは確かに極端だけれども、人間に「政治を止めさせる」ことができない以上、その形式化と外部からの監視を行う以外、「いじめ」の内面化を防ぐ手立てはないのではないか。


ま、正直そんな教育受けたくないけどね。どうせ受けるんなら、「スクール・オブ・ロック」みたいなのがいい。「調教機械」から遠く離れて。でも、多分それは不可能なのだろう。