基礎知識も押さえずに対象を否定する「バカ左翼」と知識を特権化して対象を否定する「左翼バカ」

別に左翼に限ったことではないけれど、最近良く考えるので。もちろん、自戒を含む。

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まず「バカ左翼」に関して。

特に軍事に関してこの傾向が強いように思う。例えば、「日本は軍事大国化している」という根拠は一体何処にあるのか。

単純な兵力においてなのか、保持する兵器の数・能力においてなのか、軍事予算においてなのか。そして同時に、それは単純に「増加している」という事実のみにおいて語られるのか、それとも世界的な平均値と比べて語られるのか、または「北朝鮮」や「中国」など明確な対象と比較して語られるのか。

「左翼」の人達と話すとき、このあたりの前提がうやむやにされているような印象がある。単純な「拡大している」というイメージでのみで語っているケースも多い。

もちろん、それ自体は否定されることではない。僕もそうだが、全ての人が軍事の専門家になる必要などないのだし、「専門知識を有していること」が「批判すること」の絶対条件ではないからだ。脊髄反射的に「NO!!」と言うことも必要だろう。

たが、ただ「NO!!」と言うだけでは何も進まないだろうし、仮に自分と価値観を異にする相手が対話を求めてきた場合、彼らに対して語る言葉をきちんと準備しておかなければならない。

そして、彼らに自らのロジックを納得させるだけのバックボーンも用意しておくべきだろう。その為には完璧とはいかないまでも、彼らと同じフィールドに立つ為の最低限の知識・言葉を持つことが必要だ。それがなければ、相手を懐柔するどころか議論をすることさえ不可能になる。それでは一体何のために「NO!!」と言ったのか分からない。

だが往々にして、そういった基礎知識を無視、あるいは歪曲して自説を展開してしまう人が多いように思う。上の『カナダde日本語』はその典型例だろう。

間違った知識で物事を語ることは誰もが犯す間違いだが、それを指摘された場合、自戒し自説を修正して展開できる人はあまり多くない。『カナダde日本語』も、更におかしな方向に行ってしまっている。これでは何の意味もない。逆効果だ。

何かを批判する人間は、その批判する対象を良く知るべきだろう。そして何より、自分自身の言説が批判された場合、その批判を吟味して、必要であれば自説を修正する誠実な態度が求められるのではないか。そうでなければ、その「批判する」という行為そのものに正統性がなくなるだろう。

批判を排除するだけでは物事を進めることにはならない。ひとりの人間が抱えられる知識など限られている。

必要なのはイデオロギー的に異論を排除することではなく、その異論の部分から現実的な対処を考えることではないのか。


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そして「左翼バカ」。こっちはもっとタチが悪い。

これはもう、「アカデミズムに毒された人の病気」としか言えない。実際にこういう人間が運動の中核を担っているケースが未だにある。それが僕が現在の所為「運動」というものを全肯定できない理由。

僕を含めて人文系の人々は、あまり本を読んでいないこと、知識がないことを極端に馬鹿にする傾向にある。たとえば、ガタリとかドゥルーズとか読んでいないと恥ずかしいと思ってしまう。いや、たぶん、それは読むべきなんだろうけれども、でもその知識というのはいつのまにやら「ガタリという作家が……」という、固有名詞が正当性を付与してしまうことがある。でも、実はそんなことは僕たちが気がつくまえにとっくに実行されているものだし、そして体現しているものだと思う。ただ、そこにあるのは、その行動が弁明されるべきものとして(肯定されるべきものとして)存在しているという、そういう事実なのだと僕は思う。

http://d.hatena.ne.jp/nisemono_san/20061107/1162895967

『彼ら(イベントの参加者)は、マルクスの本なんて読んでなくてもその思考・行動は既にマルクス的だ。』(要約&うる覚え)

このイベント(?)にゲストとして呼ばれた矢部史郎氏。彼はイベントの主催者であるid:nisemono_sanにこんな風に語ったそうだ。彼の言説などを読むと、彼のラディカリズムの背後には必ず「生活者=生産者への信頼」が透けて見える。

翻って上の『「勉強しろ!!」のアクテイヴィスト』の場合はどうだろう。

まず、彼女には単純に「他者」を理解しようという思慮深さが欠けている。

そして、矢部史郎氏が持っているような「生活者への信頼」も持ち合わせていない。

更に、自身の得た知識を、「他者を活かす為」に使うのではなく、「他者を排除する為」に使っている。

このような人間が、僕らの「代弁者」として語るのだ。

もちろん、これは極端な例なのだけれど、未だに運動の中核にいる人達にはこの意識が強い。これが「知識」だけでなく、「所属組織」や「運動の履歴」において展開されているケースも良く見る。どうやら、左翼団体は未だに「年功序列+終身雇用」という「日本型経営」を続けているようだ。

だが、運動の本質は日常にこそあるはずだ。ミシェル・ンデゲオチェロは『私は常に政治的だ。例えSEXしている時でさえ』(うる覚えpt2)と言っていたが、日常、つまり日々の生産や消費から切り離された運動は最早形骸であり、そんなものが社会を変える影響力を持ちえるはずがない。いや、仮に持ったとしても僕はそんなものは肯定しない。

僕らは日々の生活の中で志向し、思考し、試行する。その繰り返しの集積が「運動」なのだと僕は考える。日常から切り離された「勉強」には意味がない。ましてや、その意味のない「勉強」によって他者を排除しようとする人間に如何程の価値も無い。

上の2つの事例はもちろん極端な事例なのだけれど、ある種の本質を表しているような気がしてならない。
自身の批判に耳を貸さない、現実を直視しない人間、そして他者を排除しようとする人間は独裁者と同じである。僕は独裁者と同じ列に加わるつもりはない。