「アキハバラ解放デモ」への批判に関する雑感。
そもそも批判者と主催者側で「デモ」の概念設定が完全にずれていて、(主催側含め)誰もその溝を埋めようとしていないところに問題があると思う。批判者側は「デモ」を旧来(代表的なタームで説明するならば「シアトル以前」ということになるだろうか)の「デモ」として認知したまま、その論理設定や運営方法を批判しているように見える。
一方で、今回の「デモ」(というより、ここ何年かの間に若者主体で行われているデモの大半)は、まず旧来型の組織的な「デモ」に対する否定から想起されたものだということを理解する必要がある。
一応、この辺の文脈に関する参照文献として、毛利嘉孝氏の『文化=政治』とポール・キングノース氏の『ひとつのNo!たくさんのYES!』を挙げておく。別にここに書かれていることを肯定する必要はないけれど、今回の「デモ」の意義を問うのであれば、まずこの概念を共有しておかないと話にならないんじゃないか。少なくとも、相互にすれ違いが起こるだけで、建設的な話にはなっていかないと思う。
ちなみに、id:dozreさんのコメント欄に「リクレイム・ザ・ストリート」に関するWikipediaの解説を貼ったんだけど、どうやら誤解されてしまったらしい。確かにありゃ不十分だった。よって下記を参照して頂きたい。
シアトルでの闘争に象徴される新しい社会運動のなかで、このACT UPと共に重要な役割を果たしたのが、リクレイム・ザ・ストリート(Reclaim The Streets)です。RTSはロンドンの反道路運動から始まりましたが、その後ニューヨークやサンフランシスコなど世界規模で拡大しました。シアトルの闘争後に、イギリスの「ガーディアン」紙は、「わが国の自動車産業が瀕死の状態の時に、国際市場でいまだに強力な存在感を示している英国の集団がいる。それは、ストリートの抵抗である」と皮肉たっぷりに紹介したそうです。
[中略]
RTSが結成されたのは1991年で、高速道路拡張計画に反対して直接行動を行うなかから、自動車によって占拠されている都市のストリートを自分たちのもとにゲリラ的に取り戻すストリート・パーティへと運動が発展していきました。RTSのような運動のあり方はDiY(Do it Yourself)文化とも呼ばれています。このDiY文化は、既存の左翼運動に対する批判でもあったようです。
毛利氏はニューヨークでRTSを組織したステファン・ダンコムによる旧来の左翼運動への批判を次のように紹介しています。
「ダンコムによれば、RTSの主要な参加者となったのは、旧来の左翼運動のもつヒエラルキー構造にあきあきしていた人びとだった。
旧来の左翼運動は、中心的な指導者が存在し、指導者がデモや集会を組織し、指導者が話をし、参加者がその話を聞くという形式が主流だった。
しかし、その指導者の話とやらも、たいがいは、すでにどこかで語られたことばかりだった。
それは、何か積極的に作り出すというよりは、常に何かに対して『反対』をするばかりで、否定的で、悲観的で、消極的なものでしかなかったのである。
そこには、何かを新しく作り出していくような、わくわくする魅力を決定的に欠いていたのだ。
若い世代はそうした古い左翼文化にうんざりしていた。
RTSのDiY文化は、そうしたこれまでの左翼のスタイルを批判したのだった。
カーニバルという手法も、指導者と指導される大衆という固定的なヒエラルキーを反転させ、享楽と解放を同時にもたらすために導入されたのだった。
このリクレイム・ザ・ストリート(Reclaim The Streets)という運動は、「街路」という公共空間を自分たちの管理化に置くという目的だけではなく、「デモ」を含めた「政治」そのものを自分たちの手に奪還するという試みであるということを理解してもらえればと思う。
ちなみに、僕の「デモ」に関する基本的な概念設定は以下の通り。
「デモ」とは、別に大衆にメッセージを伝える為の「メディア」ではない。「デモ」とは合意形成の過程であり、その為の場である。「何の為のデモなのか」と問われれば、「合法的に騒ぐ為」という回答も、「それが分からないから見つける為にデモを行う」という回答も許される。別に特定のイデオロギーに統一されている必要もないし、目的を持っている必要すらない。「街路」という公共空間に人が集まるということそのものが既に政治性を帯びているからだ。だから、あえてそこに特定のイデオロギーを加える必要は無い。
「デモ」に関して、「その意義は?」とか問う奴には「手前で考えろ!!」とだけ言い放って笑ってやろう。 - 想像力はベッドルームと路上から
なので、上記の「デモ」の定義の通り、『主張のあるデモ』と『祭り』は離反する存在(概念)ではないので、それを対立する存在としている批判軸自体が無効化されている気がするのだけれどどうだろう。
また、主催者による「アキハバラ解放」や「表現規制」といったスローガンは余計だ、という意見には一理あると思うが、主催者により「自由に言いたいことを言う」ということが推奨されているわけで、そんなもん「学園祭のメインテーマ」くらいに考えておけばいいんじゃないか。逆に言うと、「デモの趣旨が〜」などという言説は、「この学園祭の運営はテーマと離反しているのではないか」とか言ってるのと同じなので、皮肉でも何でもなくそれ以上先に進みようがないからやめたほうがいいと思うよ。別に肩肘張って考えるだけが「政治」じゃないんだから。
で、一方で主催者側がこうしたことを言葉を砕いて説明していたかというとそうでもなくて(僕はずっと煽っていたわけだが)、結局のところ集知の通り言論弾圧云々とかの話しになってしまっているわけで、その辺は徹底的にやった方が良かった(面白かった)と思うんだけどね。公開討論会でもやればよかったのに。
あと、「新左翼のコスプレ」に関しては、はっきりと「何が問題なの?」と言えばいいと思う。街路で何かを主張(行動)すること自体既に「政治」なのだから、そこに特定のイデオロギーが存在すること自体全く問題じゃない(それが支配的になるなら別だけど)。逆に「路上でコスプレするだけ」でそれが立派な「政治的主張」として扱われるなんて僕なんかは痛快極まりないんだけど。んでもって、そういった人の存在を利用する何も、「統一した主張」や「獲得目標」すら存在しないのだから利用しようがないだろうと思うんだけどどうだろう。それとも、誰かオルグられたりした奴でもいるの?
そもそも、「ヘルメット軍団」より「ハルヒ軍団」の方が人数はもとより集団としての存在感(シュプレヒコール含む)を発揮してたわけで、それを見てあのデモ隊を「ハルヒが好きな集団」として見る人がいるだろうか。「何か雑多な集団」以上でも以下でもないと思うんだが。僕なんかは、あのデモに「新左翼の格好した奴がいる」ってこと自体、真面目な「左翼活動家」からすれば侮辱以外の何者でもないと思うんだけど。
あと、「中核派云々」に関しては、これ本当に心配なんで誰か真相を教えてくれませんかね。比較的主催者に近い場所にはいるんだけど、「中核派と仲が良い人間がいる」のは知ってるけど、「中核派が組織的に関わっている」って事実は知らないから。もし後者なら俺も考えるよ。(あー、ちなみに中核派=非合法団体として捉えるなら、「デモに中核派が関わっているから反対する」人は多いのに「祭りには暴力団が関わっているから反対する」って人がいないのはなんでだろうね?俺は中核派は嫌いだけど、暴力団も嫌いだぞ。)
あと、最後に「このデモをやって何か変わりましたか?」とか言って批判する人には、逆に「1回のデモで社会を劇的に変える方法」を是非聞きたいね。僕がそれをやるから。
もしその代案がないなら、単に「自分は歴史を知らない馬鹿だ」って表明しているだけだからやめた方がいいと思うよ。「アフロ・アメリカン」がどれだけの年月と方法論を積み重ねて現在の社会的地位を手に入れたか、ちょっと考えれば分かることだからさ。