今回のチベット問題に関する「左派の失策」は素直に認めてもいいんじゃないかなー。

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一応「左派」の一人としてこの辺の件に関していろいろ考えてたんだけど、倫理とか正当性の話は別にして、今回のチベット問題に関する「左派の失策」は明らかじゃないかと思うんだよね。

文句を言いたくなる気持ちは分かるし、もちろん「彼等」の手法は批判されて然るべきだと思うんだけど、じゃあ今回の件で「左派」が周囲から期待されているだけの存在感を発揮しているかというと、そうでもないんじゃないかなー。

個人的な感想として、イラク反戦運動やその後の平和活動、人権保護活動なんかと比較しても、今回のチベット弾圧に関する左派団体の動きは鈍かったし、足並みも揃わなかったと思う。中心にならなくとも何らかの形で影響力を行使できる立場にありながら、それを万人が納得できる形で行使しているとは思えないんだよね。

「彼等」の批判に対する『リソースは有限なのだから』というエクスキューズに異論はない。でもそれは人権団体や平和団体、あるいはそこに所属する個人に限った話じゃない。今回のチベット弾圧に異を唱えた人たちも等しく“リソースは有限”だったはず。

と同時に、世の中の“注目”や“熱意”もまた有限なんだよね。だから、いつも同じ値段で、いつも同じ量が買えるとは限らない。「固定相場」ではなく「変動相場」で取引されるものだし、流通量も変わる。

だから、ここで問われるべきは「有限なリソース」を“いつ・どこに振り分けるのか”という戦略性なんじゃないかと思う。世の中に存在する、全ての不正義や矛盾に等しく対応することは不可能だからこそ、逆に事態の緊急性や深刻さ、重要さ、時流に応じてそれを振り分ける戦略性が必要なんじゃないかな。

そういう「選択と集中」みたいなことは当然左派の運動にも組み込まれていて、過去様々な事案でそれは行われてきた。でもって、今回のチベット弾圧に関しては、その緊急性や深刻さだけでなく、国内に様々な人権問題を抱え、また「ダルフール」や「ミャンマー」など周辺地域の問題にも少なからず関与している「中国」が対象なのだから、“有限なリソース”を集中するに足る十分な要素は揃っているように思う。もちろん、「オリンピック」という衆目を集める事柄に関連していることも大きい。

だから、例の批判に対して“リソースは有限なのだから”と回答するだけでは不十分なんじゃないかと思うんだよね。単に「左派を叩きたいだけの人」を煙に巻く分にはいいけど、普通に「左派に期待している/いた人」には不誠実に見えるんじゃないかな。

これだけ世間の注目が集まってる事案に対して“リソースが足らないから”という理由で期待された役割を果たせないのだとしたら、その結果は「落胆」しかもたらさないんじゃない?例えばここでチベット問題“ではなく”、より深刻かつ切迫している事案を提示して『いや、チベットも確かに重要だが、今はこちらにリソースを裂くべきだ。』と主張するならまだ分かるんだけど。


また、上と並んで『チベット問題は複雑な問題であり、事態を良く考えて行動すべきだ』という主張もある。まあ“前提としては”同意するんだけど、じゃあ世の中に“複雑でない問題”なんてあるのか、とも思うんだよね。

イラクの時だって、声を挙げた人たち全てが“大量破壊兵器は存在しない”と確証を持っていたわけではないし、同時にフセイン政権が行っていたクルド人への弾圧に関する処方箋を真剣に検討していた個人や団体だって少数だったわけじゃない?別に今回のチベットの問題が、特段“材料不足”だとは思わないんだよね。

結局はある程度単純化しないと行動できないわけだし、“材料が出揃った”後では手遅れになってしまうことだってある。というか、過去そういう事態を見越して半ばフライング気味に行動していたのは「左派」だって同じはずで、今回“自重する”合理的な理由がイマイチ浮かばないんだなー。


今回のチベット問題は、中国が関連する諸所の問題も含めて“人権保護”や“平和”というものを強くアピールするいい機会だと思うからこそ、もっと積極的に“リソースを集中”するべきなんじゃないかと思う。例の新風関係の右派も“逆の立場から”そう考えたからこそ「有限なリソース」を裂いてかなり早い段階でデモまでやったんじゃないかな。多分、彼等だって“やり方さえ間違えなければ”もっと広く支持を集めていたんじゃないかと思うんだよね。なんつーか今回は見事に「機先を制された」感じはする。

多分、世間一般における“注目”や“熱意”の供給量に対して「左派」の購買量があまりに少なかった、というのが根底にあるんじゃないかな。で、代わりに安く買い叩いていったのが新風という、ちょっと笑えない結果になってしまったわけで。それはやっぱり「失策」として捉えるべきだと思うんだよね。

その辺も含めて、実際に行動を起こした人たちとの温度差というか感覚のズレを強く感じる。なんていうかさ、「スポットライトを奪われて愚痴る大物女優」みたいな煮え切らなさを感じるんだよね。過去どれだけの実績を積み上げていようが、あるいはどれだけ実力があろうが、“スポットライトを浴びなければ”それを評価してもらうこともできないわけで。

まあ幸か不幸か“代わりにスポットライトを浴びた女優”のあまりの大根役者ぶりにみんな辟易してるのが現状なので、せっかくのチャンスなんだからいつまでも“リソースは有限”なんて言ってないで堂々とスポットライトの当たる場所に出て行けばいいんじゃないかと思う。

いつもと変わらない美声と華麗な衣装を、みんな待ってると思うよ。

[追記]

(追記)
inumashさんのEntryへのお答え。

まず事実認識について。Entry上でも「ネット右翼が満足するようなかたちでは」とか「声が小さい(ようにも見える)」と留保しているように僕は特に今回左翼・人権派の動きが鈍かったとは思っていません。短期間にもかかわらずそれなりの人たちがそれなりの対応をしたのではないでしょうか。だいたい「左翼は声が小さい」とか言ってる「普通の庶民」なんて本当に存在するんでしょうか(少なくとも僕の周りの人にはいませんでしたけれども)。

(中略)

そもそも動きが「鈍い/速い」とか声が「大きい/小さい」というのは単に主観的判断にすぎない。もっと言うと政治性の表明なわけです。どういうことかというとinumashさんもネット右翼も、左翼に対して「かくあるべし」という政治的判断がまずあって、それが「鈍い」とか「声が小さい」とかいう判断を導いているわけです。左翼がそれに完全にシンクロしていないという批判なんですね。そしてそういった個人的な政治的判断でしかないものを唯一の根拠にしてしか成り立たない批判=「左翼沈黙論」というのが何か生産的な意味を持つのかよく分からない。

http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000159.html

んーと、僕が上でやってるのは、スーパーのチラシに一喜一憂する主婦と同じレベルの経済感覚の話ですよ。

簡単にまとめると

●普段、『(あなたの“注目”や“熱意”が)必要なんです!売ってください!』と大騒ぎしておいて、いざそれが大量に売りに出された時に「それなりの価格」で「それなりの量」しか買わなかったら出品者は落胆するんじゃね?

ということと、

●「それを買わない/買えない理由」が『お金(リソース)は有限だから』『他にも買いたいもの(解決したい問題)があるから』というのはカッコ悪くね?

ということなんですよ。

というか、もっと単純化してしまうと「勿体無い」としか言ってないんですね。

「それなりの活動」をして「それなりの支持」を集めれば問題が解決するというのならいいです。あるいは、既にリソースは充分にあって、それ以外の部分がネックで問題が解決できない、というのであれば。

でも現状はそうなっていないので、“注目”や“熱意”は継続して集めないといけない。だから、今回のようにそれが市場に大量に出回っている間にリソースを集中させて最大限回収しておかないと、結局ジリ貧になって「縮小再生産」以外の選択肢がなくなっちゃうよ、と僕は言ってるわけですよ。

例えば今回新風が主催したデモに参加して困惑した人たちって、本来は左派が回収すべき人たちだったんじゃないですかね。それはかなりデカイ機会損失だと思うんですけどね。

確かに「動きが鈍い・小さい」というのは主観的判断に基づくものなので(同時に「充分だ」というのも主観的判断です。僕の周囲には僕と同じことを言っている人たちがいますので。)、それを本気で検証するんなら正式に調査した方がいい、ということには同意するけれども。


以下ブクマコメ

2008年04月02日 D_Amon ネット, コレジャナイロボ はーい、運動論きました。事実と論理の一貫性を問題にしていたはずが、イデオロギーと運動論の話にずらすというよくあるパターン。そうやって自己責任論に変換。ある意味、事実と論理の一貫性において雌雄が決した証

“ずらす”とか“雌雄が決した”という以前に、「彼等」に一貫性も正当性もないなんてことは、(まともな知性を持ち合わせてる人間なら)例のデモの惨状を見るだけで簡単に理解できる事柄じゃないですかね。リンク元でも充分過ぎるほど論破されてるので前提扱いしてたんですけど、なんか違います?

“彼等の主張や言説を批判すること”と、“今回の左派の行動を検証すること”は別の問題ですし、いくら自分たちの倫理や正当性を主張したところで、今回取りこぼした“注目”や“熱意”をリカバーすることはできないんだから、そこはきちんと検証して今からでも回収できるものは回収した方がいいんじゃないか、と言いたかったわけですけど。

2008年04月02日 kyo_ju 左翼, 共産趣味, 政治 「いつもと変わらない美声と華麗な衣装を、みんな待ってると思うよ」皮肉で言ってるんですかね。聞き飽きたダミ声と老いさらばえた醜い姿、流行遅れのボロい衣裳を見たがってるの間違いでしょ?

いや、ごく真っ当なラブコールですよw

大女優でも長く続ければ「マンネリ」とか言われて批判されるけど、その実力は新人の及ぶところではないわけだし、なんだかんだ文句言う人も実際にその演技を目の当たりにすれば納得するわけじゃないですか。

左派だって同じじゃないですかね。今回新風が馬鹿やったからこそ、「真っ当な左派」が堂々と出て行って、彼等が無為にした“注目”や“熱意”を回収するべきだと思うんですけれど。