「オタク」は加藤智大を切断処理なんてしてないと思うよ。

あのころは加藤智大がいた - 過ぎ去ろうとしない過去

ま、「切断処理すんな!」というテキストの冒頭が『オタクを叩くマスコミ叩きに余念が無いはてなオタククラスタのみなさん、いかがお過ごしですか。』というある種の切断作業から始まってる時点で微妙なんだけど、

普通のオタクは良識のある市民であって通り魔などしないだとか、両親は悪くない大人なんだから全責任は容疑者に、とか言ってませんか?

ぶっちゃけ、容疑者を切断処理してませんか?

とりあえず、独立した個人が自分の行為に責任を持つ、というのは社会の基本ルールだから別におかしくないよね。それを求めることを「切断処理」とは言わない。

それを越えた部分、例えば不安定な労働形態やそれを強いる社会状況などに起因する問題は個人で処理するには大きすぎるから、社会全体の問題として捉え、全ての人が責任をシェアし同様の事件が起こらないようにする、というのは必要な処置だと思う。貧困や雇用状況の悪化と犯罪との因果関係は明示されてるわけだし。

じゃあ、今回彼が事件を起こしたことと「オタク」であることに何か因果関係は明示されてるのかな?もしそうなら「オタク」が内包する問題としてクラスタ内部でシェアする必要があると思うけど、僕は単なる思い込み以外でその因果が明示されてるテキストを知らないんだよね。

それが明示されてもなお「彼(加藤容疑者)個人の問題」として扱うなら「切断処理」と言えると思うんだけど、『普通のオタクは良識のある市民であって通り魔などしない』のは端的な事実だし『両親は悪くない大人なんだから全責任は容疑者に』というのは「オタク」関係なく社会一般に共通した認識でしょう。これをもって「切断処理」というのはちょっと強引過ぎるんじゃない?

はてなのオタククラスタ」が具体的にどの(誰)辺りを指すのかは分からないけど、どうにも「藁人形」な感じがする。

そもそもなぜオタクは「われわれは傷つけられた」と思ってしまったのでしょうか。多くの「善良な」秋葉原のオタクたちにとって、通り魔は外部からやってきたものでした。彼はまさにオタク的な趣味を持ち、オタク的な言語を用い、オタク的な問題について関心があったにも関わらず、オタクにとっての「われわれ」の中には、彼は入れてもらえませんでした。

同じく「オタク」で「秋葉原」に愛着を持ってるクラスタの中から、加藤容疑者にある種の共感や理解を示している人を探し出すのはそんなに難しい作業じゃない。そうした「オタククラスタ」内部の葛藤についてこのテキストでは全く触れられていないわけで、ずいぶんと恣意的にまとめたなぁ、と思う。「切断」どころか彼(加藤容疑者)と自分との明確な差異が分からずに苦悩してる人も少なくないのに。

「日常を謳歌する」というテキストに込められた「もう元には戻れない」というある種の諦念を完全に無視し、さも事件を「なかったことにできる」と能天気に考えているかのように扱ってるのもまた恣意的過ぎる。

少なくとも、「オタク」というクラスタの内部から「加藤智大」という存在が現れたことは事実として認められてると思うよ。もちろん中には「あんなのはオタクじゃない」「ただのキ〇ガイ」という切断を行おうとする人達もいるけれど、「オタククラスタ」の総体意思とはなっていない。冒頭で挙げられた「マスコミ批判」をしている人達の言説を注意深く読めば、それが「切断」を意図しているものなのか、それとも「オタク」という個人属性と犯罪行為との因果関係を否定するだけのものなのかは分かると思う。

後は個々人が「事件そのもの」や「オタク」や「秋葉原」との関係性の中から判断すればいいことであって、それ以上の意味付けを行う必要性を感じない。「あの事件で被害にあったわけでもない人」が、個人の葛藤を無視した表層的な解釈で、事件とオタクとの関係に過剰な意味性を与え、「事件を忘れないために昭和通りを加藤智大通りにしよう」なんて提案するのはずいぶんと「不謹慎な行為」だと思うけどな。既に「傷は刻印されてしまった」わけで、何をしようがもう元通りになることなんてないわけだし。


とにかく、このテキストはかなり質が悪い。

冒頭で『オタクを叩くマスコミ叩きに余念が無いはてなオタククラスタ』と対象を明示しているように見えて、中盤以降「(hokusyuさんの脳内規定による)総体としてのオタク/秋葉原論」にシフトしている。

意識的か無意識的かはわからないけど、対象が不明瞭なのもあって「牽強付会」な印象は否めない。「神聖化」「浄化」といった宗教学的なジャーゴンを使用としてはいるけれど別に「宗教学」のロジックをベースにしているわけでもなく、また文化人類学的に「オタク」や「秋葉原」と今回の事件との関係性を分析し問題点を指摘しているわけでもない。具体的に「誰を」「何で」叩きたいのか見えてこない。しかも、締めの部分とはしばしに余計な煽りを仕込んでるせいで、このテキスト自体が「事件の消費」を目的としているようにも見える。

こういう藁人形的な論法は、以前僕が左翼批判をした際に散々指摘されていて、hokusyuさんもブクマでそれに同調していたはず。で、今回のhokusyuさんのテキストは、そのときの僕と同じことを「オタク」に向けてやっている、としか思えないんだよね。

残念ながら「記録(ブクマ)」には残っても「記憶」には残らなかった、ということなんだろうか。なら、『加藤智大通り』なんてつくっても意味ないと思うんだけど。