あんた、普段まともにサッカーも見ない奴が代表の試合だけユニフォーム着て大騒ぎしてるのと同じくらい滑稽だぜ。

トルシエのジーコ批判 - 個人主義・ポストモダン・リバタリアニズム

深町秋生の新人日記:「深町先生かく語りき」

犬にかぶらせろ!:サッカーと愛国心(独唱)


僕は日本がオーストラリアに敗戦した直後、断片部にこんなことを書いた。

今この瞬間にジーコを叩いてる奴はすべからくサッカーを分かっていない。:断片部-inumashの犬小屋

クロアチア戦が終わった今でもこの感想は変わっていない。


『小野選手。聞こえますか?世界中の子供達が、未来の日本代表が、貴方のプレーを、貴方の「サッカーを楽しむ」というプレーを見てますよ。』

2002年の日韓W杯の時のジョン・カビラさんの言葉だ。フジテレビでW杯期間中だけ放送されていた、番組と番組の間に色々な有名人が代表への思いを語るという内容の特別コーナーだったと思う。正確には覚えていないし、検索しても出てこなかったから正しい引用ができないのだけれど、小野選手への思いを切々と語った最後に、真正面からカメラを見つめて上のメッセージを残していたと記憶している。

同じサッカーを語っていても、『世に倦む日々』とこのジョン・カビラさんの言葉とは明らかな温度差がある。それは何か。

「サッカーそのものに対する愛情」。その明確な欠如。

『世に倦む日々』の醜悪さは正にそこにあって、まるで「個性重視、自由尊重」を貶める為だけにサッカーを利用しているように見える。ジーコが採った戦術に対する批判は真っ当なものだと思うけれど、そんなのちょっとサッカーを知っている中学生なら誰でも書ける程度のもの。更には「南米型の個性尊重と自由放任主義」と的外れなことを書いている。

断片部でも書いたけど、南米のチームが「個性尊重と自由放任主義」だなんて勘違いもいいところだ。ブラジルが試合前のミーティングでどれだけ綿密な戦術確認をしているか知っているのだろうか。アルゼンチンがリケルメというファンタジスタを最大限活かす為、彼以外の中盤の3人にどれだけ戦術的な制約を課しているか、試合を見てみれば分かる。南米が「個性尊重と自由放任主義のチーム」だなんて単なるイメージに過ぎない。大体、南米の代表クラスの選手はその大半がヨーロッパのクラブチームにいることをどう説明するんだろうか。そこでも「個性尊重と自由放任主義」でやっているとでも?ただジーコが特殊なだけだってことが分からないのか?トルシエファンハール、カッペロみたいな戦術ガチガチのサッカーをしろとでも言うのだろうか。

つまり、『世に倦む日々』のBLOG主はサッカーなんぞまともに見てもいないし、愛情も持ち合わせちゃいないのだ。だって、あそこには自分がどういうサッカーが好きなのか、どんなチームが、どんな選手が見たいのか、まるで書いていないじゃないか。サッカーを餌にして、体のいい「社会批判」をやっているだけだ。そんな人間の言葉なんて一体誰が信用するのだろうか。何かを批判したければ、ストレートにそれを批判すればいい。そんな言葉より、上のジョン・カビラさんの愛情と希望を託すような言葉の方が何百倍も価値があると思う。

自論を流通させる為に無関係なものを利用しようとする姿勢は醜悪である。単なる甘えと自己中心主義の社会と同じようにね。


それからid:FUKAMACHI先生にもちょっと言いたい。

『犬にかぶらせろ!』では「国家レベル」の話をしていたけれど、そのベースにあるのは「都市レベル」、つまりクラブチームで、例えばFC.バルセロナ(参照)はカタルーニャの人々にとってアイデンティティとしてだけではなく、ファシズム政権下ではそれこそ「抵抗の象徴」としても機能していたという歴史がある。他にも、今も独立の気風が強いバスク地方のアスレチック・ビルバオというチームはバスク出身の選手しか入団できないという規則まで設けている。アフロ・アメリカンにおいてブラック・ミュージックが単なる音楽ではなく特別なものであるように、ある人々にとってはそれと同じくらい特別なものだということはご理解頂けるだろうか。

他にもイタリアにおける「南・北問題(大都市・大クラブが北部に集中し、南部は小都市・小クラブばかり)」もサッカーを通じて知ることができるし、統一後のドイツの状況(経済格差と人口流出により、旧東ドイツの都市には一部のクラブチームは存在しない)やバラックが支持される理由(彼は旧東ドイツ出身)から現在のドイツを読み解くこともできる。代表の人種構成からその国の移民問題を読み解くことだってできる(例:フランス代表)。「たかがサッカー」から読み取れるものは意外に多い。

だから、「たかがサッカー」という前に、サッカーもその歴史的蓄積によって社会性や特殊性、つまり「文化」としての価値を帯びるという、ポップ・ミュージックと同じ視線を向けてみてもらいたかったなと思う。

ポップ・ミュージックが何がしかの社会性を帯びているのはそれが様々な歴史的蓄積の上に成立をしているからであって、それを無視してはレイジもパブリック・エナミーもアンダーグラウンドレジスタンスも「たかが音楽」になってしまうのだから。