「サポーター」という概念は、サッカーを消費させる為の都合のいい幻想に過ぎない。

眞鍋カヲリを夢見て:日本惨敗の責任は誰にあるのか

この苛立ちは凄くよく分かる。実際、2002年以降、一部のサポーターの「お祭りムード」に対する苛立ちはネットや現場で広く言われてきたことだから。でもこの言説は、サッカーを観る者を『サポーター/消費者』という安易な対立構造に押し込め、ただ不毛な対立と、一部の「サポーター」の特権化を図るだけに過ぎない。そしてそれは、中・長期的に観ても日本のサッカーにとってまるで役に立たないどころか害悪でしかない。

そして、

改めて繰り返す。

 代表のユニフォームを着ている消費者は醜い。

 協賛企業の商品を買った消費者は醜い。

 マスコミに踊らされた消費者は醜い。

僕はこれを全力で否定する。これが醜いのは僕等が「消費者」だからではない。僕等に「消費者としての視線」、つまり純粋に「サッカー(商品)を観る目」がなかったからだ。

今現在、プロサッカーにおいて(というか全てのプロスポーツにおいて)、「商品」として消費されていないチーム・選手など存在しない。それら(彼等)は全て「消費されるべくして消費されて」いるのだ。望むと望まざるとに係らず。

そして、その「消費する」という行為こそが、唯一、僕等とそれら(彼等)を繋ぎとめる回路である。冷静になって考えよう。例えば貴方がJリーグのクラブのサポーターだとする。そのクラブに対して、貴方は具体的に何ができる?スタジアムに行って応援する。スタジアムに行けなければTVでその試合を観る。グッズを買って財政を助ける。感謝の意味を込めてスポンサーの商品を買う。これらの行為は全て「消費」と呼ばれる類のものじゃないのか?ここであえてサポーター/消費者を分ける意味はあるのだろうか。

 「消費者」とは、金を払うがそれ以上の責任を全く負わない存在である。
彼らは阿諛こそ受け入れるが、批判に耳を貸すはずもない。
解説者どもも、そんな「消費者」の走狗と成り果てていた。
これまたTVに出て金を稼ぎたいという私利私欲からだ。
彼らは皆、大衆資本主義の歯車に過ぎなかった。

いや違う。消費者は金を払った分だけ、その「商品」を利用する権利がある。全力で楽しむ権利がある。そして、消費者はそれを「選択した」という責任を負わなければならない。と同時に、自分の気に入らない商品であればそれを「買わない」という行為によって、商品そのものに「NO」を突きつけることができる。それらは全て「消費者」としての権利だ。

では聞こう。
「消費者」にはない「サポーター」の権利って一体何だ?

ないのだ。そんなものは。「サポーター」なんてただの幻想に過ぎない。どんなに熱烈に応援しようが、年に何回スタジアムに足を運ぼうが、客観的に見れば「サポーター」も「消費者」も同義である。

そう、「サポーター」という心地よい響きこそ、僕等にサッカーを気持ち良く消費させる為に資本主義が生み出した「幻想という名の商品」に過ぎないのだ。僕等はそれを消費しているだけだ。いい加減その幻想は捨ててしまわないか?

今必要なのは「正しい商品を見る目」なんだと僕は思う。一人の消費者として、それに金を払う価値があるかないかを見極める「賢い消費者としての目」。それを養うには、やはり多くの選手やチーム、そして何よりもゲームを見る必要がある。

と同時に、周りの「サッカーリテラシー」が足らない人達には、素直に「消費者」としての感想を伝えよう。自分の観たゲームがどれほど素晴しかったか、自分のお気に入りの選手がどれほど素晴しいか、貴方の言葉でもって伝えればいい。そしてちょっと余裕が出たら、地元のサッカーチームや高校のチームの応援にも出かけてみよう。もしかしたら、未来の代表選手が見られるかもしれない。別に「サポーター」なんて特権意識をなくしても、僕等はこうしてサッカーを楽しむことができる。これを「文化」と呼ぶのではないのかい?

そう、僕はもういい加減「サッカーの話」がしたいんだ。こんな内輪揉めではなく。次の代表チームの話がしたいし、今回の優勝チームがどこかっていう下らない話がしたい。メッシがどれだけ素晴しいか、リケルメが存在していることがどれほどの奇跡か、オランダが何故あんなにいい若手選手を育てられるのか、ラーションの素晴しさについて、スペインの理想の中盤について、クラウチのあの「ロボット・ダンス」について。

胸を張って言おう。僕は下らない「消費者」だ。でも僕は心からサッカーを愛している。

みんなもそうでしょ?