サッカーと音楽。日常との距離。歴史の存在。

2005年5月25日、イスタンブール。欧州チャンピオンズリーグ決勝、ACミランリバプール

前半を終えてスコアは3-0。逆転は不可能だと思われるスコア。しかし、ハーフタイムを終えてピッチに現れたリバプールの選手達は、サポーター達にこんな歌で迎えられる事となる。

When you walk through a storm
嵐の中を行こう
Hold your head up high
しっかり前を向いて
And don't be afraid of the dark.
暗闇を恐れてはいけない

At the end of the storm
嵐の向こうには
There's a golden sky
青空が待っている
And the sweet, silver song of a lark.
雲雀が優しく歌ってる

Walk on through the wind
風の中を行こう
Walk on through the rain
雨の中を行こう
Though your dreams be tossed and blown.
たとえ夢破れようとも

Walk on, walk on
歩け 歩き続けるんだ
with hope in your hearts
希望を胸に
And you'll never walk alone
そうさ 君達は一人じゃない
you'll never walk alone.
君達は一人じゃない

『You'll Never Walk Alone 』

結局、リバプールは後半奇跡の反撃の末3点差を追いつき、PK戦ミランに勝って欧州チャンピオンになるのだけれど、その試合内容以上に印象的だったのがハーフタイムに、そしてビッグイヤーを掲げる選手達に捧げられたこの歌だった。

海外サッカーに詳しい人はならば、多くのクラブチームにこのような応援歌(チャント)があることを知っていると思う。上の『You'll Never Walk Alone 』は、ビートルズと同じ時代のバンド「Gerry&ThePacemakers」のヒット曲(カバー)で、当時のスタジアムDJがハーフタイムにかけたところリクエストが殺到、定番の応援歌として定着したという歴史を持っている。この曲はリバプール以外にもセルティックや日本のFC東京の応援歌として歌われているので知っている人も多いかもしれない。

苦闘の末PK戦で敗れた昨日のイングランド-ポルトガル戦でも、スタジアムに詰め掛けたイングランドサポーターは状況状況に応じた応援歌を歌っていて、「母国」の歴史の深さとサッカーの愛情をの大きさを確認することができた。

イングランド応援歌まとめ-すべてが蒼に染まるまで』にまとめられているんだけど、他にもあのNew Orderの「World in Motion」(90年)という名曲があったり、サッカー選手本人が歌っているものがあったりとバリエーションはかなり豊富だ。さすが、「サッカーとビートルズの国」といったところだろうか。

さて、翻って我が日本代表の応援歌はどうだろう。これなんかを見ると色々な意味で頭を抱えたくはなるけれど、そもそも日本においてサッカーやポップミュージックという概念が一般化してからせいぜい20年くらいなんだからそんなもんなんだろうと考えるべきなのだろうか。

どちらにせよ、今回のW杯で痛感したのは、日本人にとってはまだサッカーは「異質」なものなんだな、ということ。サッカーをすることだけでなく、観ること、語ることにおいてもそれは顕著で、本来プロとして客観的な視点で記事を書くべきスポーツジャーナリストや解説者が的外れなことを言ってたり、逆にシンプルな視点でモノを言えばいいのに良く分からない文化論を絡めて自爆している素人がいたり。

別にサッカーを観ること、語ることが特別でなければこんなことも起きないと思うんだけど、何故かみんな「特別なこと」として語ろうとするからおかしくなる。もう堂々と認めてしまっていいんじゃないか。僕らはまだ、サッカーを「文化」として扱えるだけの歴史は持ってはいないのだ。サッカーは僕らの日常からは遠い場所にあるし、その本質の一体何割を理解しているかも分からない。だから、とりあえず他人の真似をすることからはじめてみよう。分かったふりをしないで、不恰好でも笑われてもいいから、とりあえず、他人と同じようにサッカーを楽しんでみればいい。「消費」だとかそんなんはどうでもいいので、とにかく、「サッカーを楽しむ」ところからはじめる必要があると思う。そしてそれが日常になった時、はじめてそれを「文化」として扱うことができるんじゃないだろうか。

もう僕らは「ガキ」だって認めてしまおうぜ。「ガキ」には「ガキ」の楽しみ方がある。そしてそれが間違った楽しみ方じゃないって事は、2002年のW杯の時に証明されているんじゃないだろうか。僕らはまだサッカーに関わることの喜びの何割かしか体験できていないのだ。だから、もっともっと楽しまなければならない。それがあるのが「当たり前」になるまで。