音楽が「重要」である必要なんかないんじゃないか。日常に寄り添ってさえいれば。

音楽があまり重要ではなくなってしまった‐空中キャンプ

id:zoot32さんの悲しみはとっても良く分かるのだけど(と言っても僕はまだ20代なわけだが)、「音楽があまり重要でなくなる」事はそんなに不幸なことなのだろうか。

確かに「音楽がなによりすき」という大人はものすごく格好の良い存在に見える。僕も10代の頃は自分がそんな存在になることを夢見ていたように思う。

でも今ではそう思わなくなった。

僕がまともに「音楽」に目覚めたのは比較的遅くて、それは忘れもしない14歳の時、OASISに出会った瞬間だった。94年のOASISのデビューアルバムから95年の2ndアルバム、そして97年の3rdアルバムが出るまでの間は僕にとって至福の3年間だったように思う。ノエルの書く詞とメロディは「僕の為のもの」であったし、リアムの声はまさに「僕の声」そのものであった。それは音楽と自分が完全に一体化した、とても幸福で、充足した体験だった。彼等さえいてくれればよかった。それが僕の音楽における「初体験」。

やがてその「至福の季節」の終了と同時に、僕の「世界」は物凄い勢いで広がっていくことになる。マンチェスターからロンドン。ロンドンからグラスゴーグラスゴーからシアトル。シアトルからワシントンDC。ワシントンDCからNY。NYから東京。東京からデトロイトデトロイトからベルリン。ベルリンからパリ。パリからブリストルブリストルからキングストンキングストンから再びベルリン。ベルリンからケルン。ケルンからフランクフルトとヘルシンキを経由してマイアミへ。過去と現在を行ったり来たりしながら、僕は国境を飛び越え、都市に潜り込む。「新しい音楽」に出会うことは「新しい世界」を発見することと同義だった。僕は音楽さえあれば世界の全てを語れると思っていたし(今でもちょっと思ってるけど)、「全ての音楽を手に入れること」は「全ての快楽を手に入れること」であり、「世界の全てを知ること」だと思っていた。

だから、音楽は僕にとって「特別」だったのだ。そして、それを聞く僕も「特別」なのだと。RCサクセションの「トランジスタ・ラジオ」ではないけれど、本当に世界と繋がることができるツールはそれだけなんだと思っていた。でもある時、それもただの幻想であることに気がついてしまう。どれだけ必死に音楽をかき集め、どれだけ真剣にその音楽を聞いても、現実の僕は何も変わらないし、世界は広がりはしないのだ。「音楽」はあくまで「過去」や「他者」や「世界」にアクセスする為の入り口に過ぎないのであって、音楽を聴いているだけでは、その入り口を覗いているだけに過ぎない。それまでの僕は音楽に依存し、自らが世界を切り開く事を一切していなかったように思う。それに気がついて以降、「音楽を聴くこと」を特権化するのをやめる事にした。そして今では「音楽から得たもの」を、日常においてできる限り表現/実践していきたいと考えている。

もちろん、音楽において「正しい聞き方」や「正しい扱い方」なんてものがあるとは思わない。でも僕がid:zoot32さんとは違って「音楽がなによりすき」という大人をあまり格好良いと思わなくなったのは、彼等が音楽に一方的に依存しているだけの存在に見えてしまったからだ。僕が本当に「音楽好き」として尊敬するのは、「どれだけ音楽を聴いているか」や「どれだけ知識があるか」ということではなくて、音楽から得たものを「どれだけ血肉化しているか」という部分においてだと思う。もちろん「依存している」という情けなさを踏まえた上での格好良さがあるのは認めるけれど(ロックンローラーやパンクスが正にそれだと思う)。

ここ何年か僕はずっと、僕にとって音楽を聴くことが特別な行為でなくなればいいな、と思っている。エリック・サティの「家具の音楽」ではないけれど、日常に寄り添うようにして音楽が存在し、そこから得たものをまた日常にフィードバックする。呼吸をすることや、ものを見ることと同種の行為として、音楽を聴いていたい。もちろん、「お祭り騒ぎ」であったり「新しい発見」なんかも必要だとは思うけれど、そればかりを求めるのは少し違うかな、と思う。音楽をことさら「重要だ」として持ち上げるのは、逆に音楽に対する冒涜なんじゃないだろうかと、どうしてもその疑念が頭から離れないのだ。

多分、「音楽を聴くこと」そのものはそれほど重要ではない。なぜなら、一度でもそれに触れた者なら、再びそこにアクセスする為の回路は開かれているはずだから。かつて音楽を通じて世界中の都市と過去を飛び回っていたように、望めば「かつての僕」に出会うことだってできる。残念ながら「かつての僕」を取り戻すことだけは出来ないのだけれど。

id:zoot32さんの言う「感受性が鈍ってきている」という言葉が、音楽だけに向けられているのかそれとも世界全てに向けられているのかはよく分からないけれど、多分それすら幸福なことなんじゃないかと、僕は思う。ずっと同じ視線でしか世界を見ることが出来ないのは、大いなる損失なんじゃないだろうか。それがある種の「後退」を感じさせるものであったとしても、逆にそのことによって得られるものもあるのだと僕は思いたい。

そして同時に、「音楽を聴かなくなること」は「音楽から離れること」ではないと思う。僕らがかつて聞いていた音楽は、今でも僕らの中に流れていて、僕らは好きな時にそこにアクセスできるのだ。別に新しい音楽に出会わなくたって、僕らから音楽が消えることは絶対に無い。

回路は常に開かれている。ならそこにアクセスすればいい。音楽はいつだって貴方の中で鳴っているのだから。

ということで明日(つか今日だな)はサマソニに行ってきます。このタイミングでSCRITTI POLITTIを呼んでくれたサマソニに深い感謝を。

「寝る前はいつも/アレサ・フランクリンみたいに祈るんだ」