自殺を強制したにせよしなかったにせよ、軍隊が「その国の国民を守らなかった」ことは事実。

命令もないのに人が自決したとしたら、その方が余程恐ろしいことではないか! - Munchener Brucke
「空気」を気にする日本人の精神主義的教育論 - Backlash to 1984
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keya1984氏への私信──沖縄戦「自決強制」関連 - モジモジ君のブログ。みたいな。

多分、僕らが「あの戦争」から繰り返し学ばなければならないことがあるとしたら、それは単に「軍隊はその国の国民を守らない」という事実であるように思う。

何隻の軍艦を沈めようが、何機の戦闘機を撃ち落とそうが、何人の敵を撃ち殺そうが、何日硫黄島を守ろうが、自殺を強制しようがしなかろうが、その一点において日本軍の存在価値は全否定されて然るべきだ。

多数の民間人を徴用した旧日本軍があの沖縄戦の状況を生み出したのは事実で、それが結果的に多数の非戦闘員の犠牲者を生み出したのも事実。国際法は「国民(及び兵士)」を守らなかったというのも事実。アメリカが無差別爆撃と原爆により、多数の非戦闘員を殺戮したのがその証左だ。「戦争」というある種の極限状況の中では、その大半が「例外的に」処理される。

そして、「軍隊」がその牙を向けるのは「敵国」の兵士や国民に留まらないこともまた事実。「軍隊」が、本来守るべき「自国の国民(兵士)」をどのように扱うのか、僕らはたくさんの事例を見てきたのではなかったか。それは決して過去のものではなく、イラクで、アフガンで、スーダンで、ソマリアで、今日においても、その「事実」は繰り返し繰り返し再生産されているではないか。

もし僕らに「教育上の責任」というものがあるとするならば、まずもって教えなければならないのはその事実であるように思う。「自決」を命令したにせよしなかったにせよ、そのような極限状態に「非戦闘員」を追い込んだ「事実」は変わることはない。本来「その国と国民を守る」ことを「軍隊」の存在意義とするならば、かつて日本軍が沖縄において行った行為は自らその存在意義を投げ捨てるものに他ならない。

そして、これは「旧日本軍」だけの問題なのではなく、「軍隊」そのものに常にまとわりついている問題だということを認識しなければならない。その認識の上で、僕らは「国民を守る軍隊」の可能性を考え、そして同時に「それが本当に必要なのか」という問いを重ねる必要があるだろう。

上述の認識が基盤としてあるならば、教科書の記述において、「自殺の強制の有無」(つまり軍の意図)はそんなに重要な要素だとは思わない。それよりも、「あの戦争において、軍隊は国民を守らなかった」という事実を反芻し、同じ視線を世界の様々な「紛争」と「軍隊」に向けさせることこそ、今最も必要とされている「教育」なのではないだろうか。