「分断」を促進したのは誰か。

階層分析は手段 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか
分断される団塊世代と団塊ジュニア世代 - 模型とかキャラ弁とか歴史とか

この構図自体に異論はないのだけど、これもある種偏った視点によるものだと思うので勝手に反論。もちろん、安易な世代論で語ることは愚かだということは前提とした上で。

団塊ジュニア世代の労働条件悪化は自民党によって作られた」という部分は全くその通りだと思うのだけど、では「当の団塊世代は一体何をやっていたのか」という部分に言及されていないのはちょっと甘いと思う。

例えば本来であれば労働者を守るべき「労働組合」が、「非正規雇用者」の組織化へ本格的に乗り出したのは極々最近のことだし、それですら「ワーキングプア」などの問題が社会問題として広く認知され、同時に既存の労働組合に対する「非正規雇用者からの批判」に直面してから慌てて行われたもののように見える(というか事実そうだろう)。

また、団塊の世代は年齢的に、90年代を通じて企業において様々な意思決定を行うポジションにいたはずなのだけれど、(プロセスはどうであれ)結局彼らは自民党のリストラ政策に乗ってしまった。

それが単に、「雇用の流動化」という事態になったのならばまだいい。もし自民党の言う政策を「厳密に」遂行していたのであれば、企業の余剰コスト(つまり必要のない人材)は淘汰され、真に能力のある人間だけが残り、そして、その企業への門戸も「年齢」ではなく「能力」によって開かれることになっていたはずだからだ。

だがしかし、各企業が行ったのは一部の人員の整理と新規雇用の抑制であった。それは業種・業界問わず一律に行われた。その為、人材の能力に関係なく、企業への門戸を潜ることは非常に困難な状況になってしまった。言わば、「人材の糞づまり」という状況である(ここ数年、新卒採用が「売り手市場」になったのも、単に景気の好転だけが要因ではないという点は明らかだろう)。

もちろん、ここで自民党の採ったリストラ促進計画を批判することは正しい。だが、企業の選択としての「新規採用抑制」も同時に批判されるべきではないのだろうか。

企業の業績が悪いのであれば、それは経営者も含めた所属する社員全員の責任である。もちろん、責任は所属する人間が取らなければならない。だが、「企業の業績悪化」は「不景気」に責任転嫁され、そのツケの大半は結果的にまだ企業に所属していない就職前の世代が「就職難」と「雇用の不安定化」という形で支払うこととなった。

自民党は何も「新規雇用を抑制する政策」を採ったわけではない。新規雇用の抑制は企業が自主的に行ったことである。そして、企業は個人の集積である。その企業の所作は突き詰めると、そこに所属する個人の責任になる。国家や社会と同じように。

単に「雇用」という部分だけ見ても、上記の構図を考えれば「自分たちの世代の失敗を下の世代に押し付けた」と非難されても仕方がないのではないだろうか。

団塊ジュニア世代の労働条件の悪化に手を下したのは団塊世代ではない」という指摘は事実だ。だが、団塊世代がそれに加担したのもまた事実である。もしかしたら、それを止めることはできなくても、今よりももっとましな状態にすることはできたかもしれなかったのにも関わらず。その所作は考慮されて然るべきだろう。

では、彼らは本当にそのことを真摯に受け止めているのか。僕にはそうは思えない。

彼らの世代の中には、未だに「フリーター」などの非正規雇用、あるいは「ワーキングプア」の問題を、「計画性の無さ」や「甘え」などの「自己責任」として語る人間は少なくない(それは正しい場合もあるのだが)。

だがしかし、彼らは今現在保障されている自身の社会的保障や資産、地位は「少なくない下の世代の犠牲」によって保障されたものだという事実にあまりに無自覚なのではないだろうか。

D_Amonさんの語る構図は確かに正しい。だが、『こういう構造を作り出したものに対してではなく、こういう構造の上に偶々乗っかっているだけのものに対して非難しているわけで、的外れな非難というものです。』という部分は違うと思う。

大枠の構図を敷いたのが自民党なら、その構図をミクロな部分まで促進したのは当時主軸となっていた団塊世代である。彼らはその構図を破棄し、自らの望むように変えることだってできた。だが意識的にしろ無意識的にしろその努力を怠った。結果、下の世代に相当の負債を残したのは事実だ。

その構図を作り出したものへの批判と、そしてそれを容認・促進したものへの批判は同時に行われて然るべきだろう。単に、その選択の責任が政権のみにあると言うならば、それは社会に所属する者としてあまりに無責任なのではないだろうか。

彼らがもし、『団塊ジュニア世代の労働条件悪化は自民党によって作られた。団塊世代への批判は的外れだ。』なんてことを恥ずかしげもなく言ったとしたら、僕は深い侮蔑と悪意の視線を彼らに向けることになるだろう。


とまあここまで書いてきたけど、これ自体「分断化が進んでいる証左」であることは間違いない。ただ、D_Amonさんのエントリも正直フェアじゃないと思ったので、こんなエントリを書いた。これほど単純な構図でないことはもちろん分かっている。

僕は、もし「分断化」という権力の戦術に対抗する方法があるとしたら、「自分に向けられた悪意への真摯さ」が重要になってくると考えている。

要は経営における「クレーマー対策」と同じ。その悪意の源泉を分析し、相手の真意を読み解き、最善の落とし所を探ること。難しいけれど、これが成功すれば、「クレーマー」は「超優良顧客」になる。

団塊世代」にしろ、あるいは「既存左翼」にしろ、「批判がある」ということは彼らの存在自体に何らかの注目と期待が抱かれている証拠だろう。ならばそれを真摯に受け止め、自身の行為や戦略を再検討し、相手にメッセージを発することは、最重要の課題として考慮されなければならない。特に「左翼」は、その努力をあまりに疎かにしていたように思う。

そんなことを考えながら、以前『銃口を突きつけられているのは「彼等」ではない。「貴方」だ。〜「論座」4月号『「丸山眞男」をひっぱたきたいへの応答』雑感 - 想像力はベッドルームと路上から』というエントリ書いたのだけれど、状況はそんなに変わっていないように見える。

「扇動された悪意」の中にも「真実」が含まれているかもしれないということを、一度考慮してみることも重要だと思うのだけれど。