「死刑反対」なのはいいけど目的と手段を間違ってはいけない。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/979079.html
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070524/1179993779
http://d.hatena.ne.jp/buyobuyo/20070524#p1

光市母子殺害事件の差し戻し控訴審に関して。

死刑廃止の是非に関しては、基本的にbuyobuyoさんのエントリに賛同する。僕は死刑制度には反対する。

また、遺族である本村氏の無念は僕が想像もできないものだと思うが、だからと言って彼の主張をそのまま受け入れることはできない。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007052201181

例えば、『事件から8年。いち早く裁判を終結し、遺族が新しい人生を取り戻せるようにしてほしい』という訴えは感情論としては理解はできるが、裁判の公平性を考えた場合、いたずらに結審を急かすこともできないだろう。ここ最近、警察のずさんな捜査による冤罪被害の事例が複数報道されているが、そういった被害を未然に防ぐという意味でも、司法における審理は慎重に行うべきだと思う。

また、『もし本気で更生というのなら、弁護士は裁判終了後、まっとうな人間として罪を犯さないよう、被告を見守っていく覚悟があるのか』と訴えているが、『犯罪者の更生に責を負うのは彼を弁護した者ではない』ということは自明のことだと思う。その責を負うのは彼を生み出した社会全体であり、それを構成する我々ひとりひとりが平等に(リスクやコストという形で)背負うものである。どのような犯罪者の弁護をしたとしても、弁護人の主張に嘘偽りがない限りはその結果の責任を問うことはできない。でなければ、一体誰が犯罪者の弁護を引き受けるというのだろうか。

酷な言い方だが、裁判は「被害者」の為だけにあるのではない。そこを見誤ると司法そのものが機能しなくなってしまうだろう。


にしてもだ。

いくらなんでも、今回の弁護側の主張はちょっと酷過ぎると思う。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20070525ddm041040093000c.html

もちろん、僕は事件の事実関係を全て知り得る立場にはいないから、あくまで現在報道されている情報をベースに判断せざるを得ないのだけれど、このまるで「死刑にならなければなんでもいい」というような主張には正直吐き気を覚える。これは「死刑廃止論」以前の「司法の存在価値」そのものを投げ捨てる行為ではないのか。

僕が何故死刑制度に反対かと言うと、細かい部分を除いて言えば、それが自分にとって、他者にとって、社会にとって「不利益になる」と考えているからだ。これは僕の個人的な良心の部分であると同時に、メリット/デメリットを考えた場合の選択である。もちろん、この部分に関する議論はあって然るべきだと思う。

しかしだ。この弁護団の主張は明らかに正当性を欠いた、詭弁以下のレベルであることは明白だろう。このような主張を聞いた後では、本村氏が会見であのような発言をすることも納得できる。

もちろん、弁護側は被告人の権利を尊重する為に、最大限の努力をするべきだというのは認める。しかしこれはあまりに幼稚すぎるのではないか。もっと他に彼の権利を主張する方法はなかったのだろうか。弁護士はあくまで「プロフェッショナル」であるべきだ。しかしそれは「司法の場において」であり、自身の思想信条を貫く為に「司法制度」そのものを軽視するのでは、彼らの存在価値を認めることはできない。

僕は「試験反対」という立場だからこそ、今回の弁護団の主張には強く反対する。というか、全ての死刑廃止論者はこのような行いを絶対に容認してはならないと思う。

なぜならば、大半の死刑廃止論者が求めているのは、あくまで「死刑」という制度の廃止(及び見直し)であって、司法制度そのものを破棄することでも、犯罪者の罪を軽視することでもないからだ。あくまで、罪を償う行為としての「死刑」の妥当性を問うべきであって、罪そのものと、それによる責任を見逃すことはできない。

個人的な考えで言うと、現在把握できる情報の限りで判断するならば、母親と幼い娘を殺害した彼の行為は十分に「死刑」の適応を検討するに足るものだと思う。彼の罪は決して軽くない。だからこそ、木村氏の言う通り、「真実を明らかにして」司法の場に臨むべきではないのか。

今回のような「死刑廃止弁護団」の活動は、死刑制度を見直すきっかけになるどころか、死刑廃止論者にとっても、司法関係者にとっても、そして被害者や遺族、加害者にとっても害悪しかもたらさないだろう。

「司法制度」を冒とくする者に、刑罰としての「死刑」の可否を語る資格などない。