全ての人間は「非モテ」になる。〜ミシェル・ウェルベック『ある島の可能性』〜

ある島の可能性

ある島の可能性

ようやく、ウェルベックの『ある島の可能性』を読了した。

非モテ」を「状態」と捉えるか「属性」と捉えるかはさておき、「老い」がそれを呼び込こんでいく描写は非常に冷徹かつ身につまされるものだった。

これまでも資本主義における闘争と、性における闘争の全面化が生む不平等な構造を主題としてきたウエルベックは、その構造に生物学的な格差、つまり「老い」をこの作品では新たに導入している。ウエルベックの小説において老いが意味するのは、安穏や余裕へ至る人生の移ろいではなく、まさに性における闘争からの脱落を意味するわけで、たとえば、恋人エステルとの決定的な別離の後、ヌーディスト・ビーチでただ若い裸体を眺めることしかできないダニエルの描写などはひたすらやるせない。

http://d.hatena.ne.jp/kebabtaro/20070306/p1

既に「経験」がコモディティ化し「老い」に大した価値がなくなりつつある現代にあって、元々「老い」に価値を見出すことが稀な「恋愛」という戦場では、僕らはひとつひとつ確実に「武器」を奪われていく。そして、いつからか、「戦場」に立つことさえ許されなくなる。僕らは武器を奪われたまま、「若さ」というかつて自分が保持していた鎧を身に纏った戦士が、獲物を刈り快楽を独占する様を指を咥えて眺め続ける。あるいは、彼らの格好や振る舞いだけを真似て、着てもいない「若さ」という名の鎧を着ている気になっているだけの、「裸の王様」ならぬ「裸の戦士」となり嘲笑される。そう、求められるのはたったひとつ、「諦念」によってその事実を受け入れることだけだ。

肉体的な衰えと共に「性愛」への執着が消え去ってくれるなら良いのだけれど、どうやら人間はそんな便利にはできていないらしい。それは、ほんのちょっと世界を見てみればよく分かる。ほら、男女問わず、年老いた人間は皆「若さ」に群がっている。

主人公は「老成」などという言葉は単なる慰めに過ぎないと吐き捨てる。この世界において、「若さ」こそが人間の抱える「欲望」を達成する必須要素なのだと。

そうした世界をクリアする為に持ち出される「永遠に死なない肉体」は、しかし当初の目論見であったはずの「永遠に若い肉体=永遠に欲望に従属できる肉体」から大きく外れ、「老成」を突き詰めたかのような「欲望しない(愛さない)生」である「ネオ・ヒューマン」として結実する。

しかし、「欲望を排除すること」で生物として進化したはずの「ネオ・ヒューマン」も、主人公が残した一遍の詩と、そして内に残る「欲望の残余」によって翻弄されることになる。結局のところ、「ネオ・ヒューマン」は、自ら捨て去ったはずの「欲望(愛)」を再び追い求めることになり、そしてそれは果たされれないまま物語は幕を閉じる。


僕は人間はあまりに「性愛」に固執し過ぎているのだと思っているので、どちらかと言うとそれを排除した「ネオ・ヒューマン」的な存在に憧れるのだけれど、でもそれを全肯定できないのは、その考えすら「老いていく」自分が「若さ」にかける呪いではないのか、と思うからだ。

その時までに僕の「欲望」が完全に消え去ってしまってくれれば良いのだけれど、自分にそれができるだろうか。今だって、既に「欲望」と、それを実現できない「肉体」のギャップに悩まされているっていうのに。

「私たちが創りだそうとしているものは、まがいものの、薄っぺらな人間なの。それはもはや真面目にも、ユーモラスにもなれない人間、やけくそになって死ぬまで娯楽やセックスを求める人間よ。一生キッズでありつづける世代。私たちはそういう人間をきっと創りあげるでしょう」

『ある島の可能性』ミシェル・ウエルベック: 映画評論家緊張日記

どうだろう。僕はそうした存在を愚かだ切り捨てることができるのだろうか。多分、できないと思う。なぜなら、僕がそうなろう、そうなりたいと思っていた人間だから。あの快楽からは、今になっても逃れられない。

欲望を消すことができないまま、しかしそれを実現する回路を断たれるという状態はまさに「非モテ」のそれだ。僕は今のところ「非モテ」ではないけれど、でも確実にそれに近づきつつある。「時間」という不可逆な力には決して逆らえないから、遅かれ早かれ「退場」を言い渡されることになるのだろう。

できることなら、彼らが欲望を叶える様を、にこやかに見つめていたい。今はまだ、僕に可能性が残されているからそれができる。でもその可能性が完全に断たれた時、僕は同じ視線を彼らに送ることができるだろうか。