「性的視線から無縁な児童」なんてのは単なる「フィクション」じゃないの?

その「少女」は本当にいないのか? - OAF
http://d.hatena.ne.jp/orangestar/20080314/1205475643

これは児童ポルノ禁止法改正賛成派にも反対派にも思うことなんだけど、「児童が性的視線から無縁であるべきだ」なんて本気で思ってるのかな?考えれば考えるほど「性的視線から無縁でいる児童」なんてどこにも存在しないんじゃないかと思えてくるんだだけど。

自分が小学生の頃を思い出してみればいいよ。隣の女子をどういう目で見ていたか。隣の男子からどういう目で見られていたか。もっと遡って幼稚園の時でもいい。「スカートめくり」とか流行んなかった?おままごとの延長でキスされたりとか、俺普通にあったぜ。

なんかさ、さも「児童は性的欲望からは無菌状態で育つべき」みたいな価値観が背景にある感じがして凄く違和感があるんだよね。それってただのフィクションでしょ?頭の中で構築された神話に過ぎないんじゃないかな。

もちろん今問題視されてるのは「大人の欲望」なわけだけど、人間の欲望はある日突然生まれるものではなく過去からの蓄積の上で成り立つものなのだから、上に書いたみたいな「欲望の芽」はほとんどの人が内包していると考えたほうが自然だと思うんだよね。「ペドフィリアはただの異常性愛者」と考えるより「誰もがペドフィリアになる可能性を持っている」くらい極端に考えておいた方が現実的じゃないかな。

で、問題は「欲望する側」と「欲望される側」の非対称性に尽きると思う。「強者」である大人が、経済的/肉体的/精神的に「弱者」である子供を欲望の対象にする際に起こり得る、ありとあらゆる現実的な問題。それをどう処理するか、そこからどう「子供」を護るか、ということが根本にあるわけで。

単純な話、実社会において「性的欲望」を制御する方法は、

●「物語」(宗教・倫理・道徳)による制御
●「法」(罰則)による制御
●「代替物」(ポルノ・風俗)による制御
●「分離」(フィルタリング・ゾーニング)による制御

大きく分けるとこの4つが挙げられると思う。

んでね。上の「フィクション」だって、全く意味がないわけじゃない。宗教でもそうだけど、「物語」を上手く利用することが出来れば人間の欲望はある程度コントロールできるから。でも、「宗教」で肉食を禁止されていたとしても、一度「肉の味」を覚えてしまった人は容易にその欲望から開放されないのと同じで、「生まれてしまった欲望」を「物語」だけで抑えきることは容易じゃない。

それが簡単にできるなら、「聖職者」と呼ばれる人々の下半身はもっともっと“大人しい”はずだけど、歴史を見ても、あるいは今の社会を見ても、“大人しい”どころか普通の人より大暴れしちゃってる人だってたくさんいるわけで。“プロ”ですらそうなのに、信仰に関しては素人の一般人が「物語」だけで欲望を抑えるなんて不可能だと思っておいた方が現実的だろう。だから他の3つ、「法による制御」と「代替物による制御」「分離による制御」が必要になるんじゃないだろうか。

で、今回のケースの何がまずいかって、本来は欲望を制御する「手段」に過ぎなかった「物語」(フィクション)を「前提」にしてしまってる部分なんだよね。その「前提」をベースに「法」を強化して「代替物」を規制しよう、というのが今回の流れなんじゃないかな。

そもそも「欲望をコントロールする為」に持ち出されたはずの「物語」(フィクション)を「前提」としてしまうのは相当危うい。ペドフィリアが単なる「異端」であり「ごく一部の異常者」にしか存在しない欲望だとしたら、問題はもっともっと単純なはず。

現実はそうじゃない。性的欲望の中には、「ペドフィリアそのもの」じゃなくても「ペドフィリア的欲望」は多分に含まれていて、しかも、多くの場合それは「ペドフィリア以外の性的欲望」と密接に結びついている。自身が感知していないところで「ペドフィリア」に親和的な人もたくさんいる。

だから、今回の「性的視線から無縁の児童」っていう「物語」(フィクション)は、欲望を制御するための「手段」としてなら機能するけれど、問題の「前提」としては機能しないんだよ。「欲望」を単純化し過ぎてるし、「現実」に即してないから。

ペドフィリア的な欲望」は個人に偏在して、それをシンプルに「異端」として扱えないからこそ、他の手段と併せることでようやく「欲望の制御」が可能になるはず。それを無視して「物語」(フィクション)を押し付けたところでそれを制御することはできない。

むしろ、その「物語」(フィクション)を前提とすることで、見えなくなってしまうものはたくさんあると思う。例えば児童ポルノの単純所持に対する罰則が厳格なアメリカより、日本の方が遥かに「子供に対する性的虐待」の発生確率は少ないわけで。

認めようと認めなかろうと「欲望」が存在していることは事実なんだから、それをなんらかの形で制御してやらなきゃならないわけで、単なる「ペドフィリアへの嫌悪」ではなく「子供を護る」ことが目的なら、「性的視線から無縁でいる児童」っていう「物語」(フィクション)は「手段」に留めておくことが懸命だと思う。

「物語」(フィクション)を「前提」として「現実」の問題に対処するなんて、笑えない冗談みたいな話だからさ。

ちなみに、今回の件で最も詳細かつ現実的のは、

王様を欲しがったカエル |児童ポルノを撲滅しようと画策している団体は、内部で児童にポルノを鑑賞させている。

このエントリだと思うんだけど、そんなにブクマ延びてないのね。みんな読んでおいた方が良いと思うよ〜。