「人権」っていつから信仰の対象になったんだっけ?

タイトルは適当。

なんでこんな当たり前の話しなきゃいけないんだと思うけれども… - 過ぎ去ろうとしない過去
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これに

2008年09月15日 inumash 社会 「当たり前」じゃないからでしょう。「当たり前」で話がすむなら憲法に「基本的人権」に関する記述をあそこまでしつこくやる必要ないし。

というブクマコメ残したら

2008年09月15日 hokusyu セルクマ ↓id:inumash なにいってるの。自明だからこそ憲法に書いてあるんじゃん。

というリアクションが返ってきて結構驚いてます。

昔、熱心なカソリックの女の子が『この世界は神がお造りになったのよ!だって聖書にそう書いてあるじゃない!』とか言ってたのを思い出しました。質の悪いアメリカンジョークみたいな話です。

まあ本気で言ってるわけじゃないと思うのでそれはいいとして、なーんか「自称中立」とか言われてるので一応。

基本的には、

2008年09月15日 wackunnpapa ホームレス このひとが納得していようがいまいが,コンセンサスが成立していない(自明ではない人がいる)以上は,議論するしかないんじゃないの,「民主制」下の制度の下では. / 憲法云々などと言ってめんどくさがったら負け.

というwackunnpapaさんの意見にわりと近いのですが、ある思想や概念に対する「自明」とか「当たり前」という言葉は、対象の『強度』を上げることにはなっても『意味』を共有させる言葉にはなり得ません。

『ホームレスになるのは自由意志か否かなんて問い自体が無意味』だと思わない人は確かに存在します。しかし、彼等の大半は「生存権」や「社会権」といった権利そのものを否定しているわけではないと思ってます。

それらの権利に関して、その文脈や成立の背景を共有していないが故に現在の在り様を正確に認識できず、またその権利が設定されていることの社会的意味も理解できない。だから、その「権利」の存在を認めながらも、いざ現実的な問題を目の前にした際にはその「権利」が奇妙に捻じ曲げられ、本来の意義や機能を損なわせるような選択をする(あるいはそれを支持する)のだと思います。

(もちろん全ての「権利」が一義的に解釈できるものばかりではないので、上に書いたような事柄を共有していても尚、その運用段階においては様々な軋轢が生じるのでしょうけれど。)

ですからこれは『強度』の問題ではなく『意味』の問題として捉えなければならないし、またそのように対処しなければならないのではないでしょうか。


生存権」にしろ「社会権」にしろ、あるいはその他の様々な権利にしろ、過去多くの先人達がひとつひとつ丁寧に積み上げてきた『意味』があるからこそ、現在においてここまでの『強度』を持ちえたのではないでしょうか。ならば「自明」「当たり前」と言うからには、そこまでの意義や価値、文脈を万人が共有している必要があるのではないですか?

僕は今の社会において、そこまでの『意味』が万人に共有されているとは思えません。ですから、それらの「権利」に関して「自明」や「当たり前」という言葉を使うのは適当ではない、と考えます。

『強度』を重視する態度・言説も必要でしょう。しかし、『意味』という中身を欠いたままでは、それはひどく脆いものとなります。更に言えば、『強度』のみで信を集める思想・概念は、それ以上の『強度』を持つ思想・概念への対抗策を持ち得ません。だからこそ、『意味』を丁寧に語る作業が必要になってくる。

例えば日本国憲法での基本的人権に関する記述にしたって、ただ「憲法に書かれている」と捉えるか、あるいは25条の『健康で文化的な最低限の生活』という概念に代表されるように、当時最も進んだ人権に関する思考を日本人自らが選択し記述したものと捉えるかによって、その『意味』も『強度』も大きく変わります。

「これまで散々やってきた」という声もどこかから聞こえてきますが、それでもやり続けるしかないのでしょう。「人権」を単なる信仰の対象としてではなく、実体と力を持つものとして社会で存続させるためには。もちろん、元エントリみたいに愚痴りたくなるのは分かりますが。

ま、この手の話は「信仰の吐露」をしたい人にとってはどうでもいいことなのかもしれませんけどね。


で、こういう考えでも「自称中立」とか言って笑われるんなら、まあそれでいいです。どうぞお好きに笑ってやって下さいな。


[追記]

言うまでもないことですが、このエントリは所為「左翼批判」を目的とするものではありません。

ある思想や概念を『自明』だとする態度・言説は、左派・右派・保守・ネオリベ問わずわりと普遍的に見られる態度です。僕も時々やります。

このエントリをどのように読むかは基本的に読み手の自由だと思っていますが、しかし最終的に『だからブサヨはw』というような結論に至る解釈は僕の意図するところではありません。ですから、そのような“読み”に対しては『ミスリードです。』とはっきり申し上げておきます。


それと同様に、このエントリはhokusyuさんの態度・言説を否定するものでもありません。

彼の過去のエントリを参照すれば、彼が『自明』『当たり前』と呼ぶ思想・概念に関して、どれだけの熱量と分量をもってその『意味』を語ってきたのかは良く分かるはずです。

僕は彼の主張全てに賛同しているわけではありません。率直に言って、ブクマにおける振る舞いのように、彼の無闇に敵対性を上げるような態度・言説は好きではありません。しかし、彼が多くの知識と熱量を捧げて、その『自明』『当たり前』の中身を語ってきたということも良く知っています。

ですから、hokusyuさんが過去自らが蓄積してきた思考をもって、『ホームレスを支援することは自明だ』と結論付けることに関しては特に疑問はないのです。

しかし、それをそのまま他者に向けることは出来ない、と僕は考えます。『ホームレスを支援することは自明だ』という表層的な同意を得ることはできるでしょう。しかし、その内実、『自明性』の中身までそんなに簡単に共有できるとは思えません。

重要なのはその『自明性』の中身です。それを「自明」だとする背景・文脈の部分。『ホームレスを支援することは自明だ』という意見に同意している人達の中ですら、その『自明性』がきちんと共有されているのかどうか、僕は疑問に思っています。上にも書きましたが、その中身が共有されていないからこそ、現実的な選択を行う際に奇妙に捻じ曲がるのではないでしょうか。

そのような違和感の表明として『当たり前じゃない』というブクマコメントを残したわけです。

ですから、それに対するリアクションとして『自明だから憲法に書いてある』というコメントが返ってきた時に『驚いた』というのは、嫌味でも何でもなく率直な感想です。彼自身が過去積み重ねてきた様々な権利に関する説明や、あるいは日本国憲法に「基本的人権」が詳細に記述されている意味を自ら放り出すような態度・言説だと思いますから。


んで、最後が一番ショボイんですが・・・

僕がこのエントリを書く直接的な契機となったのは

2008年09月15日 hit-and-run 声 id:inumashがどんどん「自称中立」みたいになってきてるなあ。笑える。

というブクマコメで、『あーなんか誤解されてんのかなー』と思ったからなんですが、

2008年09月16日 hit-and-run 声 inumashの狂信者ぶりが痛々しい。

というこのエントリに対するブクマコメを見ると、どうやら単にネガティブなレッテル貼りがしたいだけの人だったみたいですね。

このエントリでなぜ狂信者認定されるのかさっぱりわかりませんが、面白いのでそのまま放置しておきます。