思春期の恋愛における“他者評価”の面倒くささについて


ここ1年ほど、「篠崎愛はいつ“豚”から“天使”になったのか」について考えている。

篠崎愛が天使(太め)なのは言うまでもなく、彼女のグラビア画像のまとめたエントリが定期的にホッテントリ入りするなど、現在ネット上で最もシェアされているグラビアアイドルと言っても過言ではない。しかし、僕の記憶が確かなら、デビュー当時からそこまでの絶賛を受けていたわけではなかったはずだ。

彼女が世に出た当初、「巨乳画像スレ」などに彼女の画像が貼られた際には、「デブの画像は貼るな!」といった罵倒がよく書き込まれていたことを覚えている。もっとストレートに“豚”などと罵しる輩も少なくなかった。

しかし、いつの頃(多分去年くらい)からか、そういった声はなくなり、ほぼ絶賛の声しか聞こえなくなった。豚は豚でも「世界一可愛い豚」と褒める者もいる。

確かに、14歳のデビュー当時と20歳の現在とでは顔も変わっているし、事務所も移籍した。とはいえ、その評価が180度変わるほどルックスが劇的に変わったわけでもなく、また売り方が大きく変わったわけでもない。ならどうして…、というところでずっと悩んでいる。

多分、グラビアアイドルに詳しい人なら、現在のトレンドや細かな背景などを理由に説明できるんだろうけど、残念ながら僕にはその知識はない。ただ、なんとなく「“可愛い”と公に言える分水嶺を超えたんだろう」ということだけは分かる。

グラビアアイドルに限らず、誰かを「可愛い」とか「好きだ」と言うのは、たとえ本人に直接言うのではなくても恐いものだ。なぜなら、その「好意の表明」によって、自分の評価軸を他者に晒すことになるから。他者から「あんなのが好きなの?」と言われることは、自分自身を否定されるのにも等しい。

個人的な記憶として、特に中学や高校時代の恋愛における“他者評価”は想像以上に巨大な影響力を発揮していたような気がする。自分が「いいな」と思っている子でも、周りの友達からの評価が低かったりすると「もしかして自分は凄く間違った選択をしてるんじゃないか?」なんて考えが頭を過ぎってしまう。

僕にも苦い思い出がある。高校に入ったばかりのころ、初めて女の子と付き合うことになった時、プリクラを見せた友人連中から馬鹿にされて、それを気にしたせいで微妙な感じになって結局別れてしまった。凄く恥ずかしい話だし、今考えると馬鹿馬鹿しいのだが、こういう経験をしているのは多分僕だけじゃないはず(だと思いたい)。

今だったら間違いなく「でも好きなんだよ!」とか「別に誰かに褒められたくて付き合ってるわけじゃない」とか色々返せるんだろうが、思春期にはただでさえ「恋愛=恥ずかしいもの」という意識があり、さらに他者評価との適切な距離感も分からなかったから、うまく対処できなかったのだろう。

真面目に考えるなら、恋愛におけるパートナーはアクセサリーじゃないし、他者からの評価を気にする類のものでもないのだけれど、そうは言ってもノイズとして処理するにはあまりに大き過ぎる。特に、思春期ではそれがノイズであることにも気付かないし、処理の方法も分からないから容易に流されてしまう。

思春期の恋愛における『君に届け』の風早君みたいな存在は稀有であり、稀有であるからこそあれほどの存在感を発揮しているんだろうけど、ただ彼があのように振舞えるのは“彼自身の他者評価が高いから”でもあり、下手な人間があれをやると“二人揃って下層階級へ”となりかねないのが恐ろしいところだ。「他者評価」の基準は曖昧で、絶対評価相対評価ではない、という点が厄介なポイントであり、同時にそこが突破口でもあるんだと思う。

また、ひとつ確実に言えるのは、思春期の男子連中が語る「女の子の評価」ほど周りに流されやすいものもない、ということ。集団では「あいつはブス」とか「あれはナシ」とか言うが、集団から離れて個人的な意見を聞くと「実は結構可愛いと思ってた」とか「あれ?お前も?」なんてことになるのもしばしば。友達同士で「クラスの誰が好きか」という話をしている時に、自分が本当に好きな子の名前は言えずに、あえて他のみんなからの評価が高い子の名前を挙げた、なんて経験がある人も結構いるんじゃないだろうか。

たとえば、マンガやアニメなんかで「地味だった眼鏡っ娘がメガネを外した途端モテだした」みたいな話がよくあるけど、そういう場合も、「イメチェン」で本当に可愛くなったというより、それが「公に“可愛い”と言える分水嶺」を越えるきっかけとして機能していると考えたほうがリアルだ。上の篠崎愛のケースも、多分そういうことなんだろう。女子のことはよく分からないが、似たようなものなんじゃないかな。

だから、「恋愛は皆に隠れてする」というのは、思春期において他者評価というノイズから自分と相手を守るための合理的な選択なのかもしれない。隠れて恋愛することの最大のメリットは、「ノイズから離れてゆっくり二人の関係が構築できること」であり、ある程度まで構築された関係は多少の他者評価では揺るがないから、いずれかの時点で周囲にばれても色々と防壁が敷ける。最悪は付き合い始めでいきなり他者評価にさらされることだろう。

ということでおっさんが若人に送る役に立つんだか立たないんだか良く分からない恋愛アドバイスとしては、(1)恋愛における他者評価はノイズにしかならない。(2)他者評価は集団になると変な方向に歪むから信用するな。(3)ノイズ処理は大変なので、隠れて付き合うのも良い選択。という感じだろうか。

とても馬鹿馬鹿しい話だが、誰もが馬鹿馬鹿しいと思いながらもそれをやめられないのが人間の性だ。ついでに言えば、その「馬鹿馬鹿しさ」は思春期が終ったあともついてまわる。男女問わず、大人になっても、その手の「品評会」をやめない人たちはたくさんいる。そういう光景に遭遇する度に、後で「いい歳こいて中学生レベルの会話してんじゃねーよこの馬鹿」とつっこんだりしてはいるが、しかしそれに流されてしまう自分もいて、いい加減うんざりする。

世の中には、自分のことよりも他人のことを、自分の持ち物よりも他人の持ち物のことを話すのが好きな人が、結構な割合でいるものだ。「発言小町」なんかを見てると特にそう思う。そういう“面倒くさいもの”との距離の取り方を学ぶのも、「通過儀礼としての思春期の恋愛」における役割のひとつなのかもしれない。