“かわいいい女の子になりたい”くらいで、安易に“性別を超越した”なんていうもんじゃないよ。

オタクの女の子になりたい願望は性別を超える - 狐の王国

こういう反論が来るのはなんとなく予想してた。

女性も増えてきてはいるが、オタクカルチャー(特に美少女アニメやゲーム)においては男性がヘゲモニーを握っていることに変わりはない。そして、「恋愛(性)の対象」から「同化の対象」という移行はあったとしても、そこで描かれている女の子の姿が「欲望の主体たる男性によって理想化されている」点にも変わりはない。

また、【欲望する側】であり【マジョリティ】(もっと広く「社会」や「文化」としてもいい)が理想とする姿に、【欲望される側】であり【マイノリティ】が倣うのは従来通りの傾向であって、それはオタクカルチャーに限ったことではないし、特別なことでもない。実際、創作において描かれた「男性によって理想化された女性像」を「現実の女性」が自身のものとして受け入れた事例は過去にも多数あるが、それは【欲望された姿】への最適化であって、抑圧のいち形態とも考えられる。それを“理想が性別を超越した証左”として扱うのは無理がある。

まして“「かわいい女の子になりたい」と願うのは、まず女性自身”というのは、自身の抑圧性に対してあまりに無自覚な言説だ。【欲望する側】であるオタク男性が、その対象である女の子に対して「(かわいい女の子になりたいという)欲望を無視できない」なんていうのは単なるマッチポンプであり、本気で「アホか」と思う。もし俺が自分の容姿に悩む女の子だったら大口径の銃器で穴あきチーズのようにしているだろう。


↑穴あきチーズのようにされた事例

同化の対象が、男性が理想とする“かわいい”“女の子”である以上、それはある種の規範として抑圧性を発揮する。オタク男性が従来の男性ジェンダーから脱落しかけているからといって、その抑圧性が消えるわけでもない。男性が付与する“かわいい”という属性の抑圧性に無自覚でいるのならばなおさらだ。“ジェンダー規範から解放された男性オタク”という前提は、対象を気持よく消費するための“理想化された自己イメージ”に過ぎない。

男性ジェンダーからは開放された女性を欲望の対象にしないはずのゲイが、“女性性”を過度に“完璧な美”を求めるがゆえに“理想化された女性像”に囚われてしまい、無自覚なまま女性の抑圧者となってしまうこともあるように、性別(性差)はそんな簡単に超越できるものじゃない。“性の対象”としてであれ、“同化の対象”としてであれ、“観察の対象”としてであれ、そこに“かわいい女の子”という理想化されたイメージを求める限り、ジェンダーから解放されることはないだろう。

女の子が、実際にアニメやマンガで描かれる“かわいい女の子”になりたがることを否定するつもりはまったくない。与えられた“かわいい”を、女の子が自分たちのものとして主体的に変えていくこともあるだろう。けれども、それは与えられた理想を女の子が独自にチューニングした結果であって、オタク男性の理想が性別を超越した証左にはならないし、オタク男性が自身の欲望を肯定する道具としてそれを持ちだすべきでもない。自身が理想とする“かわいい女の子像”から対象が逸脱した瞬間、その主体性を尊重するのではなく存在そのものの否定に走るオタクもたくさんいるのだから。

こういった話を“俺(たち)の欲望語り”としてある種のネタ的に消費しているだけならまだ笑って流せるが、それが自分たちの欲望を肯定するための道具として、あるいは選民思想的な言説とセットで出てくるのであればさすがに笑えない。

“オタクは性別を超越した”というのは単なる幻想であって、実際には性別など超えられてはいないし、ジェンダーからの解放もされていない。性的欲望を脱臭した程度でジェンダー規範から解放されたなんて思うことそのものが間違いだ。最低限の分別として、妄想と現実の区別はつけるべきである。


それはそれとして、早く秋山殿が元気に動きまわる姿が見たいです。
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