今や「日本のゲットー」は珍しくない

http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20070114

もし「闇金ウシジマくん」が実写で映画化されるとしたら、そのサントラはMSCなどのアンダーグラウンドHIPHOPによって占められると思う。なぜなら、両者とも「日本のゲットー」をベースとした表現だからだ。

ゲットーとは(wikipedia)

日本のHIPHOP、特にスタイルとしてではなくその文化や歴史も含めて真摯にリスペクトする者にとって、「ゲットーの不在」は大きな足枷になっていたとされる。

そもそも都市の再開発によるコミュニティの崩壊と公民権運動後も続く社会的差別と貧困の影響でギャングが増加し、そのギャング同士の抗争を代替わりする意味で生まれたカルチャーであり、またその成長期にはそのような荒んだ日々の生活を表現するメディア、ジャーナリズムとしての役割を持っていたのがアメリカのHIPHOPであった。

そのような背景から、意識的な日本のHIPHOPアーティストの多くは、『「我々のゲットー=表現のベース」は何処か』という問いをまず立てなければならなかった。

ある者は自らが日々徘徊するストリートを「ゲットー」とし、またある者は一部の下らない人間がそのリソースを独占する音楽業界を「ゲットー」とした。またある者は自らの退屈な日常こそが「ゲットー」であるとし、またある者は自らの荒んだ内面こそが「ゲットー」なのだとした。

しかし今日、このような問いを立てる必要なないように思える。

実は、既に様々な人が指摘していることだが、2000年以降日本のアンダーグラウンドHIPHOPのアーティストはいち早く、「日本のゲットー」について表現してきた。上のような「概念上のゲットー」ではなく、「本物のゲットー」に関する表現である。「格差社会」や「ワーキング・プア」なんてものが話題になるよりもずっと早く。

闇金ウシジマくん」の舞台は、何処か特殊な街(例えば西成など)ではない。何処にでもある、無記名で無個性な都市(東京近郊)が舞台となっている。前述のMSCが活動の拠点としているのは西新宿。他にも同じような表現をしているHIPHOPアーティストは全国各地に存在する。

そこで表現されるのは、自由でお気楽な「ストリートライフ」でもなく、本気で振るう気のない「暴力のポーズ」でもない。また、馳星周のようないわゆる「裏社会もの」とも少し違う。それよりも遥かに地面に近いところで這い回っている感覚。ただただどうにもならない現実が「ごろり」と音を立てて転がっている、そんな表現である。「ストリートをプレゼン」なんて表現ではない。日々生産される「人間の屑」がそこに存在しているという、ただそれだけの表現。ここには向かうべきベクトルも見当たらない。

そうした表現は、何も特殊なものではなくなってしまった。誰もそうだと気が付かないだけで、最早、「日本のゲットー」は珍しくはないのだ。日本の首都であり、日本最大の都市である「東京」にすら「ゲットー」は存在するのだから。

美しい国」の足元はどんどん腐っていく。カナリアは鳴いていた。でも、誰もそれに気が付かなかったのだ。

未だにその現実に気が付かないアーティストがたくさんいる。炎が彼らを包む時、彼らはどんな声で鳴くのだろうか。