「ゼロ年代の想像力」から抜け落ちているもの:番外〜「決断主義」の抱える幼児性の正体〜

「ゼロ年代の想像力」から抜け落ちているもの(1)〜「進軍ラッパ」を吹きならしたドラゴンアッシュ〜 - 想像力はベッドルームと路上からの続きを書く前に、id:amiyoshidaさんのコメントに回答しつつ、「決断主義」に対する自分なりの定義と、そして「決断主義」の抱える幼児性がどこにあるのかについて書いてみようと思う。

ちなみに、下の文章の対象となるのはアニメとかマンガとかの所為「オタク文脈」ね。

■「決断主義」の必須要件

私は宇野氏じゃないので彼の定義はあのテキストだけではわかりませんが『ザ・ワールド・イズ・マイン』は「ゲームのようにルールが限定された状況における決断」の話ではないのでちょっと違うと思いました。『バトルロワイアル』『デス・ノート』的なゲームの状況設定の話だと思います。近いのは『未来日記』『ひぐらしのなく頃に』『なるたる』なんじゃないかな〜?『皇国の守護者』なんかもそうだと思う。はじめにルールありき。そのルールは絶対である。わかりやすい目標が設定されている(生き残る、勝ち抜く、〇〇を救う…など)この系譜だと作中述べられているけど『幽々白書』であって、そのルーツとなる『ジョジョの奇妙な冒険』なんじゃないかな。というか、ジャンプのマンガはジョジョ・システムの遺伝子がつねに付きまとってるますな。ゲームにアニメにマンガにとメディアミックスに積極的だったジャンプという影響もあるのかも。

つうことで『ザ・ワールド・イズ・マイン』は何かを決断することで事態が変わるという世界ではないのでちと違う。決断しても圧倒的な脅威の前では変わらない。抗うな。というー。『ザ・ワールド・イズ・マイン』では複雑すぎます。ルールもゴールもないしね…。絶望はあっても希望はないです

間違えた!『なるたる』じゃなくって『ぼくらの』でした。

想像力はベッドルームと路上から

本当にそうでしょうか。

僕も彼の限られたテキストから判断せざるを得ないので「決断主義」の厳密な定義を示すことはできませんが、宇野氏は以前、

村上のような例外を除けば、多くの人はゼロ年代前半にようやくこのことに気付き始めます。「世の中が複雑でよく分からない」状態は続いているのだけど、かといって90年代のように「引きこもって」いるわけにはいかない。そこで「間違っているかもしてないけれど踏み出す」という「決断主義の時代」になるわけです。これが『デスノート』の夜神月ですね。『新本格魔法少女りすか』のキズタカ少年や、『コードギアス』のルルーシュ、などもこのタイプです。現実世界でも小泉純一郎とか、ホリエモンのようなタイプが人気者になる。

http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html

と書いています。

「世の中は複雑で良く分からない」ということは、「何をしたら勝利」「何をされたら敗北」あるいは「何をしたら有利」といった「ゲーム的ルール」が明示されていない状態です。それを前提として、「自らがルールを構築する為に世界に対峙する」というのが彼の言う「決断主義」なのだと僕は解釈しています。つまり、「決断」を迫られる状況として「ゲーム的ルール」はのちのプロセスであり必須要件ではないのです。上で挙げられている作品の大半で、それら「ゲーム的ルール」は「決断」の後、ライバルなどの登場と共に明かされていく形が採られています。

例えば、「デスノート」を拾う前の月は優秀な学生ではありますが、世界に影響を及ぼせるような存在ではありません。また、「デスノート」登場以前の世界には、以降月とLが対峙していくような「ゲーム的ルール」は存在していません。つまり「デスノート以前/決断以前」の世界において、月が世界に直接影響を及ぼせるような「ゲーム」は存在しておらず、彼もまた「プレイヤー」にはなり得ていないと考えられます(せいぜい、「別のゲーム」のNPC程度の存在でしょう)。

彼は「デスノート」を拾い、それを自分の目的の為に使用することで初めて「プレイヤー」として世界に影響を及ぼすことが可能となるわけです。そして、そこに対峙するLという「別のプレイヤー」が登場することで、「ゲーム」と「ルール」が生成されます。

他の作品においても同様です。「ルルーシュ」にとっての「ギアス」、「天野雪輝」における「無差別日記」、「15人の少年少女」にとっての「ジアース」、これらの登場以前に、主人公がプレイヤーとなり得る「ゲーム」は存在しておらず、また「ルール」も生成されていないのです。

つまりです。「ゲーム的なルール」というのは「決断主義」の背景に過ぎず、それを引き起こす為に必要なのは、「異形の力の獲得」という要因なのだと僕は考えています。

ザ・ワールド・イズ・マイン』に関しても同じように考えられます。

ザ・ワールド・イズ・マイン』において、平凡な人間に過ぎなかった「トシ」が、異形の存在である「モン」に出会う瞬間から物語は駆動します。彼は「モン」との遭遇を経て、初めて世界に対峙する「決断」をするのです。彼の部屋に残されていた「ボク チカラ欲しかった」という言葉がその象徴です。

ザ・ワールド・イズ・マイン』は様々な物語を含んでいる作品ですが、こと「トシ」を物語の中心として見た場合、この「決断主義」という概念のプロットに沿った解釈をすることができるのではないでしょうか。

■「決断主義」が孕む真の幼児性

決断主義」に関しては、宇野氏もその状況認識や方法論の安易さを批判しています。ですが、僕はもっと本質的な部分でこの「決断主義」の幼児性を批判したいと思います。

決断主義」の必須要因として、「異形の力の獲得」があることは上記した通りです。そして僕はこの部分こそ、「決断主義」における最も醜悪な点であると考えています。

つまりです。これらの作品において、「世界に対峙する」という「決断」は、「異形の力の獲得」という外的要因があってはじめて成立するものなのです。この部分に対する無自覚さは、宇野氏が批判する安易さ以上に醜悪です。

この「異形の力の獲得」という前提は誰も批判していません。ですが、「僕にもっと力があれば…」「僕にもっと知識があれば…」「僕がもっとイケメンだったら…」、こうした卑小な願望が何の違和感も努力もなく「与えられてしまう」ことによって世界へのアクセスが可能になるという物語のプロットは、「幼馴染がツンデレで〜」という萌え系の物語と大差ないように思います。

少なくとも、エヴァにおける「シンジ」には、自身に与えられた「エヴァ」という力に対する逡巡と不信感がありました。彼は「エヴァ」を「自分の力ではない」と判断したからこそ、それを使うことに躊躇いを覚えたのではないでしょうか。つまり、彼は自分の能力の不可能性に対して自覚的だったわけです。

この部分において、僕は「決断主義」は明らかな「後退」であると考えています。言うまでもありませんが、現実の世界に「デスノート」や「ギアス」のような「絶対的な力」など存在していません。だからこそ、自身の不可能性を前提としたうえで社会に向かう決断をしなければならないのです。「異形の力」「絶対的な力」なんてものを前提とした決断には何のリアリティもありません。

ドラゴンアッシュの「決断主義」が敗北したのも同じ理由です。アニメやマンガに比べ、現実への依存度が遥かに高い「ポップミュージック」というフォーマットにおいてこれらの「決断主義」をリアリティのあるものとして流通させるためには、実際に「何かを変える」必要がありました。

「音楽」はそれそのものとして社会を駆動させることはできません。「音楽」で人を殺したり、世界を直接コントロールすることはできないのです。

結局のところ、彼らは音楽における「決断」を実社会において具体化する方法を知り得ませんでした。だからこそ、彼らの音楽は安易な全能感と自己顕示の固まりとしてその醜悪さを晒していくことになるのです。

冷たいようですが、根拠のない全能感を処理しないまま社会に出てこられても邪魔なだけです。逆に引きこもっていてもらった方がコミュニケーションのコストが発生しない分遥かに楽です。

もちろん、作品の送り手はこの構図に意識的でしょう。

デスノート」の秘密が暴かれた月は不様な最後を遂げますし、「モン」と引き離された「トシ」は、彼が殺した被害者の遺族の手によって惨殺されます。

決断主義」の導入に関しては、この「自身の不可能性」をどうやって物語に反映させるかが、評価の大きなポイントになるのではないかと思います。