ロッキング・オン的批評に関するメモ書き。

まあもうちょっとまじめに説明すると、ロキノンはアーティストからトラウマだの苦悩だのそういった言葉をそういったものを無理矢理引き出してそういう性格付けのインタビューを掲載することで、雑誌は人気を得る、読者はアーティストのことを何か深く知った気になれるというものなので。それをロキノン文化圏外に持ち出してあーだこーだと語るのはぜんぜん意味がないってかんじですよ。


ただ、ある文化圏内だけで盛り上がるものをその文化圏外に持ち出してあーだこーだいうのは、ネットが普及してきて以来普通の出来事になってきてるからなあ。それは弊害のほうが多いようにしかおれには思えないけども。


http://d.hatena.ne.jp/strange/20090621#p3

Perfume周辺に多大な混乱を巻き起こした件に関する、strangeさんのこのエントリへの勝手な補足と個人的なメモとして。

まず、ロキノン派生媒体(?)のひとつである『SNOOZER』誌で副編だった加藤亮太氏の評をいくつか抜粋。ちなみに1999年から2000年に書かれたもの。

彼の当時の状況認識・時代認識に関してはこのエントリの前半部分を参照のこと。

スヌーザー』が正統的に引き継いでいるロッキング・オン的な批評磁場というのは、話を思いっきりショートさせてしまえば、自分を中心において世界を構成しようという、ある意味子供としての試みだ。


No.22,34p DaftPunk『One More Time』評において。
※ちなみに、この評は(前号の自身のレビューが原因で勃発した)『中村一義SNOOZER絶縁事件』(なんだこれ)を受けて書かれたもの。

恋人が死んでも自閉症にならなかった僕はとにかく自意識のスペシャルな欠落をもったいぶって歌うシンガー・ソングライターというのが鬱陶しくて苦手だ。その手の精神過敏に保証された、アーティストとリスナーとの共犯関係というのが大嫌いだ。病名付けられたい奴は気の済むまでそうしてればいい、そんなもんは誰にでも自動的に付くようになっている。「トクベツなワタシ」なんて都合のいいチープな幻想につけこむ『ロッキング・オン』式言説は心底馬鹿にすべきだ。それは商法としては評価するべきなので、そのオリジネイターだった(ような気がする)おじさん(注:田中宗一郎)を上司として今、僕は働いている。


(中略)


ちょっと落ち着いて、偉そうな物言いをしてみるなら、カウンター・カルチャーとしてのロックなんて、子供の未成熟な自我の物語にすぎないというのが一つの本質だろうから、そのほとんどが有り体な精神分析のストーリーに収まってしまうというには、しゃーないといえばしゃーないことだとは思う。日本の90年代なんてバブルの名残りという特殊条件に支えられてたわけで、持て余すほどに満たされた自意識というのがハンパに切羽詰ればどういう結果生むのかは、絵に描くよりも自明だし。とはいえ、やっぱりもういい加減、例の『マイ・ブック』みたいなロックをこれ以上聴かされるのは気が滅入るよ。


(ここで古明地洋哉の“引きこもり”プロフィール)


まるで、ここまで散々書き殴ってきた個人的なプラトニズム(半分被害妄想入り)を、逆撫でするためにあるような出来すぎのストーリー。その生い立ちを2万字ほどの見事な商品性を持ったインタビューに仕立てあげるにはピッタリかもしれなくても、スペシャルな表現者スペシャルな物語を有り難がる習慣のない僕の心は、これを読んだ時点で2万光年遠ざかった。引きこもりブームの決定打か?あんたの苦悩なんか俺には関係ねーよ、と。


No.19,29p 古明地洋哉に関する記事。
※ちなみに前半はこんな感じでボロクソ(というか古明地洋哉関係ない)だけど後半はまともに評価してます。ただ、その後半部分がここで彼がボロクソ言ってる『ロッキング・オン』式言説の模造品みたいになってるのは意図的なんだろうか。

その点この“ガストロンジャー”は、宮本という作家にとって、極めて幸福な作品になったと言える。言葉の力のみが異様に突出する、過剰さ。ツェッペリンのボンゾ風のドラムに、ドゥービーズそのまんまのコーラスが乗るオケのショボさは、ナイジェル・ゴドリッチの音に耳を澄ませていたらしいという話や、他誌のインタビューで語られていた宅録の風景を重ねてみるに、“身体言語の獲得”というなかなかに感動的な物語を想像させてくれる。つまり、いわばローファイ・ミュージックの一種(?)として、僕はこの曲から快楽を得ることができるのだ。


ところが、この曲を歓迎する多くの声は、こう叫んでいるように聞こえてくる―「これがロックだ!!」と。この反応に対する横ヤリは、当然こうだ―「ロックって何よ?」。そう、ここでは、「ロック」という言葉に与えられた“意味”だけがイメージとして暴走し、先回りで不幸な共犯関係を結ばれてしまっているのだ。ここに音楽を聴く耳は、一切存在していない。それを証明するのは、「細かいことゴチャゴチャ言わなくてもいいんだよ」=「ディテールなんかどうでもいいだろ」という、裏側の声である。細部にこそ本質は宿るという見識を、少なくとも作家自身は理解しているからこそ、録音にこだわりを見せたに違いないにも関わらず、だ。この事態を―すなわちイデオロギー的に不自由してるロック本質主義者達のサルベージ・システムとしての受容を―「不幸」と呼ばずして何と呼ぶのだろう。


(中略)


確かに宮本本人は、渋谷陽一から受けた薫陶をストレートにアウトプットし、もしかしたら本気で「これがヒップホップへの返答だ」とか信じていたりもして、そこにはある種の「勝った」感が漂っているのかもしれない。しかし、さっきも言ったようにそれはそれで宮本的な過剰さとしてOKなのだが、そこに「ロックが勝った!!」という思いを重ねてしまう人々については、やはり「音を聴いていない」と言わざるを得ないだろう。


No.17,123p エレファントカシマシ『ガストロンジャー』を巡る事象に関して
※ここで批判されている批評軸の中心にいるのは、言うまでもなくロッキング・オン・ジャパン


仲俣さんの評も併せて。

この雑誌の批評のスタイルや内容については、これまでいろんなところで論じられているので繰り返さない。私的な「自分語り」が、そのまま一種の批評となり、またジャーナリズムとして機能してしまう(ように見える)「ロキノン文体」は、いわば初期小林秀雄の文芸批評から、昨今のブログ批評にまで一貫して流れる日本の伝統的な批評作法であり、いわばその「中興の祖」が渋谷陽一であり『ロッキング・オン』であることは間違いない。


(中略)


1986年には『ロッキング・オン・ジャパン』が創刊され、日本人アーティストに密着して、徹底的に長いインタビュー、いわゆる「×万字ロングインタビュー」を行うという方法論が発明された。その方法論は『CUT』や『SIGHT』といった新雑誌でも踏襲され、吉本隆明北野武宮崎駿といった文化人が、ロック・ミュージシャンに代わる文化的ヒーローとして機能するようになる。


このような方法論に対しては、「すぐれたインタビュアーは同時にすぐれたジャーナリストである」という立場から、一定の評価もできる。だが同時に、ロングインタビュー方式の乱発によって批評の自律性が失われ(もともとそんなものがあったかどうかは別として)、この雑誌が読者投稿を原則とする「書き手=読者」の共同性のなかから立ち上がる言葉を載せるメディアから、カリスマ的な教祖から読者に向けて下される言葉を媒介するだけの、一方的なメディアに成り下がった、という批判もまた可能だろう。


http://d.hatena.ne.jp/solar/20081008/p1


最後に個人的な解釈を。

ロキノンの批評スタイルにはおおまかに分けると2つの方法論があります。「正のフロート」と「負のレバレッジ」です。

「正のフロート」とは、作品を取り巻く大状況を背景にその価値を前景化させるという方法論。通常、このような方法論を用いる場合は、周辺状況や過去をできる限り整理・具体化し、縦軸(歴史)および横軸(他作品との関係や周辺ジャンルの状況)における対象の座標を決めた上でその価値を語る、という形式をとります。

しかし、ロキノンの場合は、評価の基準となる“大状況”の整理・具体化作業を行うことはほとんどありません。それは“今”や“日本”や“ロック”といった曖昧なイメージのまま受け手に提示されます。そこで語られる価値は固定座標を持つものではなく、曖昧なイメージの上に“浮かぶ”形となります。ですから、その批評の受け手は、その作品の価値に関して「なんとなく凄い」というイメージは共有できても、「何が素晴らしいのか」「どう素晴らしいのか」といった具体的な中身までは共有することができません。

ロキノン誌上(に限った話ではありませんが)でよく見る「ロック史上に残る傑作」とか「閉塞したシーンに風穴を開ける意欲作」なんてコピーが白々しく見えるのは、(販促用という身も蓋もない見方を除けば)こういう理由です。

そして、今回混乱を引き起こす原因となったのがもうひとつの「負のレバレッジ」という方法論です。

これは、背後にあるアーティストの感情から作品の内実(重み)を読み取り、その価値を語るという方法論です。これ自体は「正のフロート」と同じく特異な方法ではありません。

しかし、ロキノンが特殊なのは、対象となるインタビューイからその内実を引き出すのではなく、インタビュアーの自意識や一方的なイメージ・解釈を対象にぶつけ、そこにインタビューイの感情を“沿わせる”形式をとる点です。インタビューイから放たれる断片的な言葉をもとに意味や物語を構築するのではなく、あらかじめ用意された意味・物語の“補強材”としてインタビューイの発言が従属する。ロキノン誌上のインタビューがどれも似たように見えるのはそれが理由です。

でもって、strangeさんが指摘している通り、彼らの最も得意な“物語”が、過去のトラウマや欠落などを前面に押し出す所為「救われたかった僕」というパターンです。彼らがこれを選択するのは、恐らく“ロック”という古臭い物語がこのパターンそのものであることと、そして何よりもこれが“売れるから”でしょう。ポジティブな背景から生み出された作品よりもネガティブな背景から生み出された作品の方がなんとなく重厚で、文学的で、価値があるものとして扱われやすいのは音楽に限った話ではありません。

このように(ネガティブな)“感情”という負荷を働かせることで、その作品をより価値のあるものに仕立てるのが「負のレバレッジ」という方法論なわけです。

このふたつの方法論を同時に使うこともできます。「時代に選ばれた音→時代に選ばれた者の苦悩」あるいは「苦悩の末に生み出された傑作→時代の無意識に選ばれた才能」みたいなパターンがそれです。

このふたつの方法論を巧みに使いながら、作品の価値を語るのがロキノン的批評の骨格です。ちなみにこれは、ビートルズ以降の商業化されたポップ・ミュージックにおいて、数多のアイコンを生み出した力学をそのまま「批評」という領域にトレースしたものでもあります。要するに、「ポップ・アイコンを生み出す方法論」こそがロキノンにおける「批評」という行為なわけです。まあただのマッチポンプと言ってしまえばそれまでなんですが。

つらつらと書きましたが、これが「ロキノン的批評」の大まかな特徴です。賢明な皆様におかれましては、彼らの「批評」にいたずらに惑わされることがないよう、自らの知見を深める努力をして頂ければと思います。


最後に念のため書いときますが、僕はそこまで熱心なロキノン読者というわけではありません。「ロッキング・オン」本誌はともかく「ジャパン」は時々立ち読みする程度ですし、上の加藤さんの評も10年近く前に書かれたものです。だから「今のロッキング・オン」に関する評としては、もしかしたら的外れかもしれません。そこは自分の目でちゃんと確かめて下さいね。