『世界は人殺しの夢でできている。』(田中ユタカ『愛人』)

inumash2006-02-27

「ホテル・ルワンダ」を見て(気が付くってもしかして不幸なことかも)
『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!この人を見よ!(ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記)
『ホテル・ルワンダ』が役に立たない??(音極道茶室)
映画の力と馬鹿な大人(趣味のWebデザイン)
「エンタテインメント」は免罪符ではない。(絶叫機械+絶望中止)
『ぼくたちの洗脳社会』を好きな人が「映画の力なんて大したことがないんだ!」と主張する不思議テクニック (ARTIFACT@ハテナ系)


こんな風に、僕等が映画を観たりそれに関するおしゃべりをネットで楽しめるのは多分、すごく幸福な事なんだろうと思う。

でも、みんなこうは思わないだろうか。

こんな社会を体験する事もできずに、死んでいく人達はどれだけいるのだろうか。僕等のこのような生活を支えているのは、一体どんな種類の人達なのだろうか。僕等が普段着ているもの、食べているもの、使っているもの、今履いているスニーカーは、今使っているPCは、一体どんな人がどんな風につくったものなんだろうか。彼等はどんな生活をしているのだろうか。彼等は僕等と同じような生活をしているのだろうか。

僕は知っている。僕の今の生活は、ほんの一部の恵まれた人間にだけ与えられられているものだと。僕は知っている。それは、決してフェアなシステムによって支えられているものではないことを。僕は知っている。「ルワンダ」で起きた事と、この構造は決して無関係ではないことを。僕は知っている。僕が今受けている恩恵の一部でも空け渡す事ができれば、救える人間もたくさんいることを。でも、それを空け渡す事を僕はしないだろう。

これが、ある種の脅迫観念であることは分かっている。それでも、僕はこの考えから離れる事ができない。そんな中で、僕は少しだけ贅沢な食事を楽しみ、映画や音楽を楽しみ、恋人とのおしゃべりを楽しむ。これは一体何なのだろうか。

多分、上にリンクを並べた人達はその構造に気が付いている。だから、「ホテル・ルワンダ」にあれこれ言いたくなるんだろう。僕にはそれが、それぞれの人の「贖罪*1」に見えてしまった。

ある人は積極的に係わることで。ある人はそれに反発することで。ある人は周囲の視点に疑問を呈することで。ある人はニヒリズムに浸ることで。ある人は表現の可能性を信じることで。ある人はそれらの視点を俯瞰してみせることで。それぞれがそれぞれの形で贖罪をなしているように、感じてしまったのだ。

その中でも最も真摯なのは、やはり町山さんだろう。彼はこのポール氏の行動の原点に、「職業倫理」を見た。そして、彼自身も「映画評論家」としての職業倫理のもと、「ホテル・ルワンダ」の公開を実現させた。その行動はとてもに論理的だと思う。

僕の結論は月並みだけどこれだ。

多分、ここに正解はないし、「絶対的な被害者」なんてものも存在はしないんだろう。それでも、僕の中からこの罪の意識は消えはしないし、今まで通り、色々な形で「贖罪」は続けるんだと思う。自分のできる範囲のことからしか、構造を変えることはできない。だからそれを繰り返すしかない。それが、どんなに「偽善」や「分裂病」に写ろうとも。

*1:これは、あくまで僕の主観です。